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あの木陰にはユウレイが住んでる #月刊撚り糸


あの大きな木の名前、なんて言ったっけ。

ずり落ちる花束を左腕だけで抱え直すと、鼻先に百合が香った。新緑を押しのけた強い芳香は、瑞々しい花びらに反してひどく甘ったるかった。

掻き消えた白線が伸びる一本道は地平線とつながっている。家を囲むのブロック塀にはむした苔の緑や枯れた蔦が目立ち、その足元で剥き出しの側溝から荒々しい水の音がする。まるで人の暮らしが自然の中に取り込まれたみたいだと思う。

その青々しい景色の真ん中に、一際大きな樫の木が見える。2階建ての家にかぶさるような高さで、風が吹くたびに若葉の擦れ合う音が巻き上がる。

物心ついた頃にはすでに今の姿だった大樹の名前を、わたしは頭の隅で探している。

木の根元へ近づくと、木陰にはいつものおばあさんが立っていた。綺麗な淡い水色のワンピースを着て、わたしがお辞儀をすると、彼女も人好きのする笑顔を浮かべる。ちらちらと揺れる光が皺の刻まれた頬の上で踊っていた。

やっぱり思い出せない。

六年振りに訪れた故郷には濃いセピア色が漂っている。はじめまして、よりも「はるちゃん、おかえり」と言われるほうが多くて、戻ってきた当初は苦笑いばかりしていた。急な帰郷のわけが幸せなはずもないのに。

さっさと目的の場所へ足を踏み入れ、用意してあった手持ちの桶に水を汲んだ。その間も抱えた花束から重い香りが弾け、早く生けてしまおうと母の墓前に立った。

まだ真新しい墓石の花瓶から枯れたものを抜き、買ってきた花と入れ替えていく。一昨日に供えた花がまだ元気で、すぐに口がいっぱいになった。

最後に墓石の正面に立つと、自分の名字と目が合う。故郷にいると「はるちゃん」と名前で呼ばれるから、わたしは母を弔うときにだけ自分が「梶原はるか」であったことを思い出す。

両手を合わせ、目を閉じる。光が瞬き、子供の声がする。春と呼ぶには暑すぎる風がざぁ、と抜けていく気配がして、母が死んでからふたつ目の季節が過ぎようとしていた。


わたしは、いつまでここにいるんだろう。


目を開け、空を見上げる。あ、と急に頭の隅が点滅した。

そうだ、あの木、ユウレイカシだ。


***


彼が尋ねてくるのは二度目だった。「好きだったよね」と言って掲げたのはシュガーバターサンドの水色の袋で、わたしは少し目を伏せてずしりと重い土産物を受け取った。

拓海が来ることは以前から決まっていたのに、いざ目の前にすると何もかもが億劫になった。

誰もいない家に「お邪魔します」と言った彼の背中は、古びた家の背景によく溶け込む。丁寧に揃えた合皮の靴も、寝癖のついた襟足も、嫌いになったわけではないのに、わたしは彼を振らなくてはならない。

それも、二度目の拒絶の言葉とともに。

古い炊飯器で炊く美味しくないご飯と温めるだけのパックご飯を天秤にかけて、パックご飯の方をお茶碗によそう。いくつかのおかずと一緒に缶ビールを2本持っていき、ささやかな食卓を囲んだ。

あらかた食べ終えたところで、拓海は穏やかな口調で切り出した。

「結婚しませんか」

「どうして敬語なの」

「口調を変えたら、はるかの気も変わるかと思って」

本気か冗談かわからない拓海の言葉に戸惑う。しかし拓海は気にする素振りもなく話を続ける。

「きみは東京へ戻るべきだよ」

「もう仕事も辞めたし、アパートも引き払ったんだよ。戻れる場所なんてない」

「ぼくのところに来たらいい。東京でなら仕事だってすぐに見つかるし、嫌になったら出て行ったっていいよ」

パックご飯を「美味しいね」と言ったときと変わらない平坦な声で拓海が言った。心臓の奥の触れてほしくなかった部分がぐずつきだす。

「だってはるかは戻りたいんだろう。今の仕事をするために東京へ出てきたんだって、そう言ってたよね」

「気が変わった、とも言ったでしょ。ちゃんと聞いてよ」

「聞くよ、それがきみの本心ならね」

「勝手に深読みしないで」

語気の強い言葉が飛び出す。彼の耳たぶにはかすかな赤みが差し、テーブルの上のビールは手つかずのまま。こうなると知っていたから、拓海と会うのは億劫だった。

着替えを持った彼を風呂場へ押し込み、その間に来客室に布団を敷いた。冷たい寝具が夜の指先に辛く、来訪を許した先日の自分が恨めしかった。

他人から見れば、わたしはどこかおかしいのだ。

仕事を辞めたとき、直属の上司は「きみが実家へ帰るとは思わなかったよ」と嘲笑を浮かべた口元で言った。背後からは同僚たちの近すぎる興味が追い打ちをかけてくる。しかし一言の弁明も出てこなかった。自分でも、なぜこれほど執着するのかわからなかった。


***


”ユウレイカシ”の由来は知らない。だが地元の子供たちはあの木の下で遊ばない。幼い自分も、あの木陰を踏んだ覚えがない。

「ユウレイカシの木陰に足を踏み入れると、木に喰われる」。それを聞いてからしばらく夜は母に手を握ってもらって眠った。小さな娘を寝かしつける母はわたしに公務員や安定した仕事を望んだが、18歳になった子供に親の希望は怖い話の何十倍も恐ろしかった。反対を押し切って上京し、都会で借りた家で寂しさと引き換えに懐に収まった自由が愛おしかった。

だが働きはじめて5年目の冬、母が亡くなった。

危篤だと連絡を受けた深夜、残業帰りにスーパーで胃に入れるものを買って始発で向かおうとしていた。

「お忘れ物にご注意ください」という電子音とともにと飛び出したお釣りの小銭を取ろうとすると、五円玉が派手な音を立てて落ちた。溜め息をつきながら手を伸ばすと急に頭の重みでふらつき、右手と床との距離がつかめない。頭上では残されたお釣りの受け取りを耳障りな連続音が催促してくる。取りたいのに、取れない。身体が思う通りにならない。

気がつけば店の通り沿いでタクシーを拾い、故郷へ向かっていた。朝焼けに薄れていく星の光を見ながら、わたしは母との最後の会話を思い出そうと必死になっていた。


***


朝食に出した焼き魚を綺麗に平らげると、拓海は玄関に立った。扉の飾り窓から輪郭のはっきりした陽射しが差し込み、今年初の夏日を観測するだろうとニュースで耳にしたことを思い出す。

「もう、会うこともないだろうね」

「ずいぶん寂しいことを言うのね」

「嘘ついたって仕方がないから」

さざなみのような彼の言葉に釣られ、互いに「さよなら」と言って別れた。拓海の背中は擁壁に沿った下り坂をゆっくりと降りていき、やがて見えなくなった。

わたしは拓海を見送ったその足で近所の花屋に寄り、白百合を中央に据えた花束を買う。一昨日供えたばかりの花がまだ元気だろうけど、ひとりきりの家にいるよりはマシだと思った。

胸に湧いた苛立ちと虚無感の置きどころは、真夜中のタクシーに乗り込んだあの日からどこにも見つからない。ただ郷愁が無性に甘ったるい。

母のお墓までの道すがら、ユウレイカシの木陰にいつものおばあさんを見つける。湿った涼しさの風が通り抜け、樫の木は怪物のように両手を振り上げた。足元を木の葉の影が掠り、喰われる、と思った。

「お嬢さん?」

翳った足元に顔を上げると、裾広がりのワンピースが揺れていた。急な出来事に呆けていると、皺の刻まれた手がわたしの肩に触れる。

「顔色が良くないわね、こっちへいらっしゃい。座って」

手を引かれて木陰に腰を下ろす。太陽の音が消え、いるだけで息が整うような静けさが満ちていた。

「お嬢さん若いのに、お墓参りなんて偉いわね」

「他にすることもないので、」

仕事は、と聞かれなかったことに安堵しながら、抱えた膝の中から花束をそっと隣に置く。

「あなたは、いつもここにいるんですね」

「おばあちゃんは暇だからね、ただ気持ちのいい木陰の下でお迎えが来るのを待っているだけよ」

ジョークよジョーク、と付け足した含み笑いに合わせられず曖昧な表情を作ってしまう。

「でもあなたみたいな家族がいるなら、むこうへ行くのがちょっと惜しくなるわねぇ」

「そう、でしょうか」

胸の中で何かがうずいた。わたしの知らない怪物がうごめくような、押し流される予感がスカートで覆った膝の上に落ちる。

本当にそう、でしょうか。

「すぐに帰るつもりだったんです、」

そよりと頬を撫でる風の間に鋭い突風が混じる。若い葉が頭上から名残惜しむように落ちてきて、木陰と陽射しの間に落ちた。

「母が死んだことは悲しかった。でも家のことが片付いたら東京へ戻って、仕事して、時々母のことを思い出して、そうやって生きていくつもりだったんです」

つもりだった、と口にしてみると惨めさにも似た焦燥感が吹き出す。どこで違ってしまったんだろう。肩にかかるおばあさんの手の温度だけが柔らかい。

「でも、もう半年が経ちました。そのうち段々悲しいのが和らいでいって、そろそろ戻ろうって思うのに、動けないんです。荷物をまとめて家を出ようとすると手が震えて、何も考えられなくなって、座り込んだ床が冷たいなぁとか、そういうことしかわからなくなって、」

タクシーのシートにもたれて、母との電話を思い出していた。ご飯は食べているのか、仕事は忙しいのか。スマホの電源を落としたくなるような鬱陶しい台詞たち。素直になれない自分が大人になりきれていないみたいで腹立たしかった。仕事相手や恋人とはうまくやれるのに、母を前にするとみっともない自分が顔を出すのが嫌だった。こんなわたしはいなくなればいい、そう思っていた。

相変わらず最後の会話を思い出せないまま、なぞるよう冷たい窓に手をかざす。


「わたしは、どうして動けなくなってしまったんでしょうか。寂しいのと引き換えに、自由が手に入るんじゃなかったんでしょうか」


一本道のずっと向こう側、数ミリのカーブを描く地平線にちぎれた雲が重なる。その先にかつて暮らした街があるなんて信じられなかった。

おばあさんの隣は、まるで誰もいないみたいな気配がした。見ず知らずの人なのに、わたしは彼女の言葉がほしかった。それをわかっているみたいに、おばあさんは奥行きのある声で言った。

「怖い夢を見ているのね」

肩に乗っていたシミのある手が滑り、わたしの手にそっと重なる。

「『愛しているものがあったら自由にしてあげなさい』って言葉、今の若い人は知っているかしら。わたしがまだ学生だった頃、うんと昔に流行ったのよ」

「聞いたこと、あります」

「わたし、あの言葉が大嫌いなのよねぇ」

薄く紅が引かれた唇から漏れた「大嫌い」に目を瞬せると、おばあさんは目尻を細めて続ける。

「だって自由にされたほうはどうなるの。放り出される悲しみを知らない者の戯言だわ。そんなものは独りよがりよ。

でも、わたしだっていつか死ぬわ。誰だっていずれは何もかも手放さなくちゃいけないのよ。持っていけるのは思い出だけ。残していけるのもね」

「残していけるのも?」

「残していけるのも、よ」

口の端を頬に寄せて微笑んだ顔に、丸い木洩れ陽が踊っている。大小様々な光の粒が付いては離れてを繰り返す。

埋め尽くされた日常の中でわたしたちを捉えているものは、本当は、メレンゲ菓子のように軽くて脆い。別れたあとになって「来てくれて嬉しかった」と、最愛の人に伝えなかったことを後悔する。離れることは手放すことでも、手放されることでもある。

光の粒は風見鶏のように東へ西へ不規則に遊ぶ。ひとつでいいから拾いたくて手のひらを上に向けると、突然四方八方から薄黄色のひだまりが集まってくる。重なり合ってオレンジ色になり、濃い朱色になり、やがて暖かさを詰め込んだ色になった。じんわりと指先まで温まってくる。

「でも大丈夫よ。あなたにはちゃんと手を握っていてくれる人がいるわ」

おばあさんのいた気配が溶け、代わりに懐かしい甘い香りがして、世界は丸く閉じていく。


***


目を覚ました、というよりも、永い考えごとから解放されたような心地だった。

高く登った太陽は樫の葉に遮られ、穏やかな彩度に満ちた木陰が広がっている。

「拓海、起きて」

隣で寝そべる恋人に声をかけるも「んん、」と低い唸り声の返事をするばかりで、まぶたは閉じたまま息遣いに合わせて上下する。

彼の胸にそっと耳をあて、すぐに身体を起こした。握られていた手に力が篭もったが、目を覚ましたわけではないらしかった。

わたしは木陰が美しく揺らめくのをじっと見つめる。鮮やかな緑と、力強い風の音、子供の遊ぶ声。記憶よりもいくか綻んだ街。

「また来るね」




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