見出し画像

フーバー元大統領回顧録

 江崎道朗先生の著書に出てきますが、アメリカの共和党を中心とした「ストロングジャパン派」は、アジアの平和と安定には強い日本が必要だとの考え方があり、日米開戦には反対の立場でした。
 
 世界恐慌で支持率を落とし退陣を余儀なくされた共和党のフーバー大統領は、のちに回顧録を出版していたことを知りました。
 この回顧録のことは今日、父の知り合いの高等学校社会科の先生(近現代史専門)からの私宛のメールにて知ることが出来ました。

 回顧録の内容の一部を紹介してくださっていて、私自身は共和党を中心に日米開戦に反対していた人たちがいたことは江崎先生の著書などから承知していますが、フーバーはルーズヴェルト大統領の前の大統領ですから、おのずと興味が湧いてきます。

 今回は、私宛のメールに書いてくださった、そのフーバー元大統領の回顧録の内容をここに紹介いたします。


 
 フーバー(前)大統領(共和党)曰く:ルーズヴェルト政権が大戦に参戦しようとすることに強く反対して「ラジオ放送を通じて」(フーバー著FREEDOM BETRAYEDより)

 もしわれわれが参戦することがあったら、スターリンが勝利を収めることに手を貸して、われわれの犠牲において、スターリンがヨーロッパの大きな部分を呑み込んで支配下に収めることになろう。そうなれば、大きな悲劇がもたらされることになる。

  ヤルタ会議が1945年2月に催されたが、その一ヶ月後に日本の重光 葵外相が東京駐在のスウェーデン公使と会って、本国政府に和平の仲介を求めるように要請した。ここから進展はなかったが、日本が和平を求めている決意をはっきりと示したものだった。

 7月26日に、ポツダム会議が日本に対して最後通告を発するまで、日本は六ヶ月にわたって和平について打診していた。日本は原爆投下の二週間前に、ソ連に対して和平の明らかな意向をもっていることを知らせていたが、トルーマンもバーンズ(国務長官)もスティムソン(陸軍長官)も、日本の外交電文を傍受解読して承知していた。

  トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を示していた。これはアメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を永遠に責むものである。


  フーバー著「FREEDOM BETRAYED」(来日時マッカーサーとの対談)

 日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズヴェルト)の欲望であった。

 1941年7月の日本に対する経済制裁は、Undeclared War(宣戦布告なき戦争)であった。

 1941年9月の近衛の和平提案を拒否したこと。この提案は、駐日アメリカ大使もイギリス大使も祈るような気持ちで実現することを期待していたにもかかわらずである。

 1941年11月、日本の最後の譲歩案(三ヶ月の凍結案=乙案)を拒否して、ハル・ノートで応えたこと。これを一切議会に報告せず、国民は何も知らず。自分(フーバー)自身も全く騙されていた。



  このフーバー元大統領の回顧録ですが、(上)(下)とあるようです。


 英語版


 戦後70年が経った頃から、アメリカ側では例えばハワイホノルルのアリゾナ記念館では、かつてはアメリカ側の視点のみで展示が作られていましたが、現在は日本側の視点も取り入れられるようになっています。
 


 ここで言いたいことは、アメリカの中にもフーバー元大統領のような視点を持った人たちがいる、ということです。

 と同時に、アリゾナ記念館に関しては、歴としたアメリカ政府管轄の機関が運営しており、そこで日米双方の視点で展示が行われるように変化している、ということも知ってもらいたいところです。



 フーバー元大統領の回顧録とは別に、共和党ハミルトン・フィッシュ下院議員、ウイリアム・D・リーヒ大統領付参謀長、歴史学者でスタンフォード大学教授のバートン・バーンステイン教授の回顧録なども教えてくださいまして、その内容は以下の通りです。



 ハミルトン・フィッシュ下院議員(共和党)
 6年間のニューディール政策の失敗の後、アメリカでは未だ1300万人が失業状態だった。『日米開戦の悲劇―誰が第二次世界大戦を招いたのか』(岡崎久彦訳)

 
 
 ウイリアム・D・リーヒ 大統領付参謀長回想録(原爆投下後の記述) 
 自分の意見としては、広島と長崎で使ったこの野蛮な兵器は対日本戦に実質的に役立つようなものではなかった。日本の敗戦はすでに明白であり降伏の用意もできていた。…私の個人的な感覚では、この兵器を最初に使った国家として、我々は暗黒時代の野蛮人たちの倫理基準を採用してしまった。私は、そのようなやり方で戦争を遂行することなど教わったことはないし、婦女子を殺して戦争に勝つことなどできない。



 米国のバートン・バーンステイン教授寄稿文(「中央公論」1995年2月号「検証・原爆投下決定までの三百日」) 
 一発目の原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、八月九日に長崎に落とされた二発目の原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった。



 先生はお休みの日は、昔の記録を図書館などで当時の新聞や資料などで調べたり、本を読んで過ごしているそうで、私の想像をはるかに超える知識をお持ちです。

 先生に以前お聞きしたことがあります。
 「学校では近現代史をどのように教えているのですか?」
 「入試等の試験に関わってくるので、教科書の記述に沿って教えなければならないのでしょうか?」

 この問いに対する先生の回答は、
 「教科書の通りに教えておりますが、その裏にある事実も伝えております」
 とのことでした。

 社会科(近現代史)のテストもあるのでそこを踏まえて授業は進めつつ、教科書に書かれていることとは別にその裏にある事実も伝えているという先生のご回答は、いろいろと工夫なさっているんだなと思いました。

 地道ながらも堅実な行動で一人でも多くの仲間を増やしていく。
 そんなことを思いました。

 先生からの次のメールを楽しみにしつつ、今回はここで終わりにしたいと思います。

 ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?