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【連載】雲を掴んだ男 09/焦燥の行方

 翌日。昨夜の騒動を問い詰めようと、夏生は初めて馨の教室へ自ら赴いた。里香を巻き込んでいたことも気に食わなかったが、何より払拭しきれない違和感を解決したい気持ちが強かった。本当に、何もなかったのか。ただ猫の集会を覗き見していただけなのか。なぜ、自分の携帯番号を知っていたのか。得体の知れない焦燥感にかられていた。

「木谷くんなら、今日休みだよ」

 いきおい乗り込んだものの、クラスメイトの一言であっさり門前払いを食らう。しかし、昨日の今日で休みというのは、やはり何かあったと勘繰らずを得ないではないか。

「何でも昨日、お父さんが亡くなったらしいよ。今朝、担任に連絡があったって」

 その言葉に、夏生は一瞬呼吸を止めた。昨日なら、あいつは廃工場で猫を探していた。その前なのか、後なのか。いずれにせよ、突然のことでショックを受けていることだろう。夏彦は自身も混乱する頭を抱えて、教室を後にした。

 そこまで親しい友人かと問われればそうではないし、そもそも馨の家さえも知らないので、お悔やみに向かうのも違う気がする。しかし、なぜだかこのまま授業を受ける気にもならず、夏生はこっそりと校門を出た。

 まだ昼前の空は澄み渡り、夏の気配がもうそこまで来ていた。昨夜のひんやりとした鋭さは、すっかりとなりを潜めている。不思議な気分だった。馨は、あの後、父の訃報を知ったのだろうか。それとも、元々病に伏していたのかもしれない。知らない、知らないのだ。出逢ったばかりで、友人と称していいのかもわからない馨のことを、夏生は何一つ知らなかった。

 時折揺らめく草木を踏みしめて、いつの間にか、馨と猫探しをしていた河川敷まで来ていた。特に深い意図があったわけではないが、河川敷から街中へ、そしてあの古びた工場群へと、夏生は猫の影を追うようにフラフラと歩を進めていく。金属の匂い、耳を劈く機械音、そしてあたりに充満する土埃。果たして、こんな環境で猫たちが本当に集会などするのだろうか。そんなどうでも良いことを考えていると、ふと、一軒の廃工場が目に留まる。

 屋根は落ち、壁はところどころ穴が空いている。寂れた、廃墟のような工場跡だ。しかし破れた壁の向こうには、小さいが草むらが広がり、無造作にいくつかの土管が置かれていた。まるで、世間の目から隠れた秘密基地だった。なるほど、もしかしたらここが猫のたまり場なのかもしれない。

 思いついた夏生は、一番口の広い土管の中に体を滑り込ませてみた。少し狭いが、体勢を動かすほどのスペースはある。ここに隠れていれば、猫に気づかれずに覗けるかもしれない。

「……何をやっているんだ、俺は」

 そこまで考えて、ふと我に返る。急速に羞恥心が襲ってきて、土管から抜け出そうと身を捻った瞬間、パキリ、と枝を踏みしめるような音が夏生のすぐ傍で響いた。誰か来たのか。とすれば、今ここから出るわけにはいかない。真っ昼間に土管から現れた高校生男子など、ただの変質者である。音の主は当然だがこちらに気付くこともなく、キュッキュと草むらを縦断し、夏彦が潜む土管の前を通り抜けていく。ヒールのないパンプスに赤いスカートが目に入る。そのままどうにか視線を上に向けると、栗色の腰まで伸ばしたストレートヘアを確認することができた。

ーー女子か、ますますしばらく出れねぇな

 夏生は気付かれないようにため息をついて、その体勢のまま現れた女性の動向に注視した。女性にしてはかなり上背がある。細長い手足は、まるでモデルのようだ。不意に彼女が振り返る。長い髪を風になびかせて、白い頬が顕になる。小さく薄い唇、長い睫毛。この距離で、この角度でなぜそこまではっきりと見えたのかはわからない。しかし、見間違うはずもない。その姿はどこからどう見ても、

「おまえなにやってんだ」

 夏生は思わず素っ頓狂な声を出した。その姿はどこからどう見ても、馨だったのだから。


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