【連載】雲を掴んだ男 00/序章
体の中を空っぽにするかのように、深く深く息を吐いた馨(かおる)はその場でゴロリと寝転がり、右手を空へと伸ばした。そのまま掌を握ったり閉じたりしながら、開いた指の間から漏れる陽光に時折目を細めている。いくばくかの不審を感じながらも、夏生(なつお)は自らも傍らに寝転がると静かにそよぐ風を鼻先で弄んだ。
「俺さ」
不意に馨が呟いた。言葉にはせず、目線だけで相槌を打つ夏生に少しだけ笑顔を見せて、馨は続ける。
「大人になったら、雲が捕まえられると思ってた」
「は?」
突拍子もない話題に、夏生は上体を起こして馨の顔を覗き込む。
「だってさ、子供の頃って大人がすげぇでかく見えて。大人のすぐ頭上に空があると思ったんだよ」
いたって真面目な表情で馨は語る。
「中学生の時に親父の身長を越して、それでも空に手が届かないのは何でなのかなぁって思ってた」
「今も思ってんの?」
ため息混じりに夏生が問うと、馨は少し困ったように眉毛を下げて押し黙った。その姿がすべてを物語っていたので、夏生はやれやれと肩をすくめて再び草原に身を預けた。しばらくして、思い出したように馨が口を開く。
「雲、掴みたいなぁ」
「掴めないから、雲を掴むような話って言うんだよ」
「そんな話、実現したらすげぇじゃん」
「リアルじゃないね」
「そこがいいんだよ」
馨はケラケラと笑い声を立てながら、再び空に手を伸ばす。何気ない、穏やかな夏の午後だった。この均衡が崩れたときに、いつか僕はこの日を後悔するのだろうか。答えのない疑問が首をもたげて、夏生は強制的に思考を遮断した。キラキラと輝く川面に、よく晴れた空の青が溶け込んで反射していた。
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どこで間違ったのかな。目を閉じれば、いつでもあの夏の空が見えるのに。灰色の午後に、夏生はため息をついた。
いつからか、ぱったりと途絶えた馨の消息。夏生は連絡が取れなくなった後も、変わらない日常を過ごした。毎日毎日、クーラーのきかない工場でひたすらラインと向き合っていた。
だから、思いもしなかった。わずか数ヶ月後に、自分が馨の未来を根こそぎ奪ってしまうことになるなんて。
「あいつ、どうしてるんだろうな」
最後に目にした馨の面影を浮かべては打ち消して、夏生は滴り落ちる汗を乱暴に拭った。
>>01/雄の三毛猫 に続く
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