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【連載】雲を掴んだ男 08/見えないもの、聞こえるもの

  夏生が電話に出ると、予想を裏切って受話口の向こうは静まり返っていた。一度スマートフォンを耳から話して、表示された番号を里香に確認させるが、眉を八の字にしてかぶりを振った。そもそも、電話番号から電話を掛けることなんて、ほとんどない。仲の良い間柄でも、SNSやメッセージアプリのIDを交換するだけで、電話番号を聞くことなんて数えるほどだった。

だが、それでも夏生には、この通話が馨からのものであると確信めいた想いがあった。

「おい、おまえどこにいるんだ?」

 だからこそ、夏生は相手の確認をすっ飛ばして問い掛ける。それでも水を打ったような静けさが返ってくるだけで、僅かな反応もない。そうして、返事がないまま幾分かの時間が過ぎ、もしかしたら本当に馨ではないかもしれない、と少し不安がよぎった夏生は、通話をオフにしようとディスプレイに指を掛けた。瞬間、唐突にガァン、と金属同士がぶつかり合うような鈍く重たい音が受話器越しに鳴り響いた。

「おい……、なんだ今の音! おい、聞いてるのか!」

 弾かれたようにスマートフォンに向かって呼びかけるが、そこで電話はプツリと切れてしまう。里香が不安げにこちらを見上げているのはわかっていたが、夏生も事態を掴めないまま、焦れるように履歴を呼び出すと、馨の番号に掛け直した。

 驚いたことに2コール待たないうちに、馨は意外にもあっさりと通話口に出た。

「ごめん、夏生。待ってた?」

 拍子抜けするほどに、いつもと変わらない軽薄で、ちょっと高めの声がする。

「待ってた、じゃねぇよ。なんだ今の電話は」

「電話?」

 心底わからないと言った調子で、馨が聞き返す。

「電話が来たと思ったら何も喋らねぇし、かと思えば鉄パイプでも落ちたような音はするし、なんなんだおまえは」

 苛立ちを隠さずに夏生が問い詰めるが、今度はすぐに返ってこずに、受話口の向こう側で思案するような気配が感じられた。

「……そうか、間違って電話掛けちゃってたらしいね。ミスだよ、ミス。誤操作だ」

 馨は極めて明るい声音で話した。その様子が、どうにも取り繕っているように感じるのは、考えすぎだろうか。

「それにしたって、あの音……」

「ああ、ごめんごめん。夏生を待ってる時にさぁ、フサフサの長い毛の猫を見つけて。これは飼い猫だなぁと思ったら、こんな時間に飼い猫が出かけるなんて猫の集会に違いないと思って。夏生待っても全然来ないから先に行っちゃったんだよ」

「おまえ、それならそれで電話くらいできるだろう。おまえは俺の番号知ってるんだから」

「まぁそうなんだけど。人間の声がしたら猫も逃げるんじゃないかなぁって。で、結局集会場所は前に夏生とも行った、工場地帯だったんだけど。本当に猫が集団で集まってるんだよ! そしたら、しばらくしてそこに三毛猫がやってきてさ、見た目じゃわからないからちょっと性別を確認したいなぁ、って近づこうとしたらね、工場の外にあった資材やら何やらを思い切り倒しちゃってさ。猫は逃げるし、足はぶつけるし散々だったわー」

 おそらく、その時電話がつながっていたんだねと、馨はあっけらかんと笑った。夏生は、

「そいつは雌だったよ、多分な」

 言って、ため息交じりに通話を終わらせた。馨の言っていることに矛盾はない。そもそも遅刻したのは夏生なのだから、先に行動されていても仕方ない。しかし、名状しがたい違和感が、腹の底から湧き上がる吐き気のようにべったりと喉まで張り付いて、それがいったい何なのか解決する手段も持たないまま、頭を抱えることしかできないでいた。

>> 09/焦燥の行方  に続く

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