見出し画像

【連載】雲を掴んだ男 07/乙女の祈り

 その日の夜、夕飯を終えた夏生は煮え切らない気持ちを抱えながら自宅を出た。夏生の住む団地には中庭がある。そのため7階建ての建物の中央部分が最上階まで吹き抜けとなっており、周辺に位置する部屋同士は、空間を挟んでお互いの家を認識しやすい設計になっている。

 里香が暮らす部屋は、夏生の家から中庭の吹き抜けを挟んだ正面に位置する。彼女の姉は3年ほど前から一人暮らしを始め、母は今でも遅くまで仕事をしているそうだ。だから、部活を終えた里香が帰宅する19時ころに、玄関脇の小窓にようやく明かりが灯るのだと、夏生の母が話していたのを思い出す。しかし今、もう20時を回ろうというこの時間、里香の家は真っ暗なままだった。

「あいつも一緒にいるのか?」

 夏生はひとりごちると、そのまま少しだけ立ち止まってから、エレベーターホールへと足を向けた。

 5月も半ばに差し掛かったというのに、通り抜ける風にはひんやりとした鋭さが残っていた。着古したスウェットの上下には、突き刺すように冷気が浸透してくる。上着を羽織るべきだろうか。今更取りに戻る気もないのだが、ぼんやりとそんなことを考えながら、夏生は駅までの道を辿っていった。

 馨に指定されたコンビニに到着した時には、もう20時を5分以上まわっていた。遅いぞ、と馬鹿みたいに大きな声で叫ばれるのを覚悟していた夏生は、店内にもその周辺にも馨がいないことに、すっかり拍子抜けしてしまった。トイレにでも行っているのか、とマガジンコーナーで立ち読みをしていたものの、一向に出て来る気配もない。連絡を取ろうにも、馨が言うようにお互いの連絡先を知らないのだ。昼間の通話は、メッセージアプリからの着信だった。ただ、里香のスマートフォンを介してのものだったし、一方的に通話を切られてしまったため、夏生のIDは知られただろうが、馨の連絡先は知る由もない。

 勝手なヤツめ、と口の中で舌打ちした夏生だが、冷静に考えてみれば遅刻した自分にも非があるかもしれない。ましてや一方的すぎる約束の取り付け方だったため、夏生は来ない、と馨が判断した可能性も考えられる。夏生は店の外に出てスマートフォンを取り出すと、里香のIDを呼び出した。

「はいっ」

 ワンコールも待たずに明るい声がした。しかしその声は、受話口を通してだけでなく、夏生のすぐ背後からも響いてくる。驚いて振り向くと、満面の笑みの里香が立っていた。

「やっほー、ナッちゃん。馨くんは?」

「里香、おまえ何やってんだ」

 声を荒げる夏生にも、慣れたことだと動じることもなく、里香は鼻歌交じりに通話をオフにした。その姿は制服のままで、おそらくあれから一度も家に帰っていないことを窺わせた。

「今日20時にここで、って馨くんが通話で話してたから。あたしも来ちゃった」

「来ちゃったじゃねぇよ。だいたい、おまえアイツとどういう関係なんだ?」

「やだ、気になるの? ヤキモチ? わーい」

 くるくると表情を変えながら跳ね回る里香に頭を抱えながら、コンビニの外壁に背中を預けた。

「アイツなら来てないみたいだよ。俺も探したがLINEも知らねぇし、飽きたか寝てるかだろ。おまえももう帰るぞ」

 夏生が言うと、里香は一瞬逡巡して

「待って。じゃあ、あたしが掛けてみる」

 こちらの返事を聞く前に、スマートフォンを耳に当てた。しばらく待ったが馨が出る気配はないようで、僅かに顔を顰めると、今度は画面に向かって素早く指を動かし始める。

「LINEしといたよ。どうしたんだろうね? 楽しみにしてたのに」

 親しげに馨について語る里香に、聞きたいことは山ほどあるものの、どうせまたはぐらかされるだけだと、夏生は短く息を吐いただけで答えを返すことを止めた。

「もう、ナッちゃんってほんとそう。ちょっとからかっただけなのに、もう聞いてくれないんだから」

 里香は苛立ったように早口になる。

「は?」

「まぁいいけど。ナッちゃんがあたしに興味ないのは前からだし。馨くんなんて、最近仲良くなっただけなのに」

 さらに拗ねていく里香に煩わしさを感じながらも、幼いころからの習慣が、このまま放置するという選択肢を、夏生に選ばせてくれない。

「だから里香、結局おまえとアイツはなんなわけ? よくわからんところでいじけられても、俺だってどうしようもねぇぞ」

 なるべく穏やかな声音を心がけて尋ねると、しばらく里香は唇を尖らせていたが、ようやくゆるゆると口を開き始める。

 曰く、馨のことは入学当初から生徒会役員として認識していたが、言葉を交わすようになったのはここ二週間ほどのこと。陸上部の練習中に、夏生と連れだって歩く姿を見かけるようになってから、まったくタイプの違う二人がどうして仲良くなったのか興味を持ったそうだ。

 夏生に聞いたところで思ったような内容は手に入れられないだろうな、と馨と話すきっかけを探していた時に、たまたま草むらから出てきた馨と部活の片付けをしていた里香が鉢合わせたそうだ。

「草むらからって、何やってんだアイツは」

 呆れたように夏生が言うと

「だから、猫探してるんでしょ?」

 と、あたかも当然のように里香が返してくる。

「あたし、木谷先輩ですよね? って話しかけて、その後に夏生の幼馴染ですって言ったの。そしたら馨くんすごく喜んで、夏生いいヤツだよなーって色々話してくれたんだよ」

 馨も里香も、人見知りのしない竹を割ったような性格だから、親しくなるのに時間はかからなかった。その日のうちにLINEを交換して、夏生の話に花を咲かせる仲になったという。

「なんだよ、それ」

 夏生はぐったりと肩を落とした。しかし里香はそんな様子を知ってか知らずか、構うことなく話を進める。

「猫を探してるって言ってた。どんな猫かは教えてくれないんだけど、その猫を見つけることが、今の生きる目的みたいなものだって。すごく大げさだよね」

 里香は一言一句思い出すように、ゆっくりと話した。三毛猫の雄を探している。その話は里香にはしていないようだ。だが、生きる目的だって? 夏生は眉根を寄せた。夏生には、金儲けとしか言っていない。相手によって、出す情報を小出しにしているのはどうしてだろう。そもそも何が真実で、何の目的で夏生や里香に関わっているのだろう。里香から話しかけたとしても、そこまで深入りする理由は何だ。途端に馨への疑念が、水に落とした絵の具のように広がっていく。

「集会場があるって言ったのは本当だよ。ただ、ナッちゃんに言わないで、まずは馨くんだけに教えたいって言ったの。それで、今日は馨くんに嘘の用事をつくってもらったんだ。ごめんね」

「なんでそんな面倒くせぇこと」

 夏生が何度目かのため息を吐くと、里香は困ったように伏目がちにキョロキョロした後、

「ヤキモチ、焼くかなぁって……」

 消え入りそうな声でそう言った。しかし、あまりにも小さな声だったから、その時震え出した夏生のスマートフォンの音にかき消されて、彼の記憶に残ることはなかった。

ディスプレイには、知らない番号が表示されていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?