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【短編小説】光

「光の画家を見に行きませんか?」

僕はその時、大学3年で彼女は2年生だった。僕は理工学部で彼女は法学部で、キャンパスも違った僕たちが出会ったのは、古民家を再生して造られた建物の中で彼女がオーダーを聞き、僕があいがけのスパイスカレーを頼んだ時だった。壁いっぱいに古書が詰め込まれたカレー屋で、僕は休みの日になるとそこでカレーを食べたり珈琲を飲んだりして本を読んだ。コップの水があと一口になった時、彼女は水の中でカットレモンがぷかぷかと浮かんだボトルを持って僕の隣で止まった。

「アート小説好きなんですね。よかったら明日、光の画家を見に行きませんか?」

彼女は手際よくコップを持って水を足し、水滴のシミが残ったコースターの上に置いた。僕は読んでいた原田マハの小説を栞もはさまず閉じて、彼女を見上げ咄嗟にありがとうと伝えたままぽかんと口をあけてフリーズしてしまった。

「明日で終わっちゃうんです。」

そう言って彼女はポケットからチケットを1枚取り出して、コップの横に置いた。

「もらいものなんですけど、2枚あって。」

思わず僕はもう一度ありがとうと呟いた。彼女は、じゃあ10時に美術館の入り口でと言って、レモンを泳がせながら他のテーブルへと移動した。突拍子のない誘いに、僕はありがとうを2回だけ言って、明日10時に美術館へ行くことが決定した。それから、ページをいくつか進めたけど頭にはなにも残らなくて、どうしようもなく浮ついていた。踊らされているレモンのように。夕涼みの中、僕は駅まで歩いて、この日ばかりは帰りの電車で文庫本を広げずに、スマホで ”大学生 メンズ ファッション” と検索をかけて、さりげないおしゃれな服装を調べたりした。

Tシャツを重ね着したり、サマーニットなんかを着たり脱いだりしながら、時間がせまってきて最後に着た濃いグリーンの開襟シャツに黒いチノパンといういつもと変わり無いスタイルで慌ててアパートを出た。連絡先はおろか、大学も名前も知らない女の子と待ち合わせるなんて人生で二度とないのではないかと思いながら。昨日カレー屋で閉じた本を開いて平常心を取り戻そうと電車に揺られていたらあっという間に目当ての駅についた。

少し早く着いたけど、彼女は既に入口で待っていた。白いTシャツにジーパンというラフなスタイルにヌメ色のショルダーバック。イマドキのオーバーサイズなものではなくて、上下とも体のラインが出るようなシルエットで、目のやり場に少し戸惑った。美しかったから。

「おはようございます。」
目が合って、小さくお辞儀をした。
「あ、おはようございます、すみません、待ちました?」
「いえ、私もさっき来たところで。じゃあ行きましょうか!」
「あ、ちょっと待って。名前、えっと僕は、高見孝太郎。東洋大学理工学部3年です。君は?」
彼女は驚いた顔をして口を開いた。名前は白坂えりか。法学部の2年で、キャンパスは違うけど同じ東洋大学だった。カレー屋でバイトをしているという。父親の会社が特別協賛で入っている企画展でチケットを2枚ゆずり受けたが、誰を誘おうか迷っているうちに明日が最終日となってしまった。原田マハの小説ばかりを読んでいる人(僕)ならなんとなく行ってくれそうな気がして誘ったらしい。

受付にチケットを見せて、空調のよく効いた建物の中に入ると、じんわりとかいた汗が一気に引いた。

18世紀から19世紀にかけてイギリスで活躍した風景画家の展示会だった。僕も彼女も音声ガイドを借りてひとつずつ音声にしたがって絵を見て回る。一枚の絵の前で僕たちは止まった。解体前の帆船と最先端の蒸気船、沈む太陽と昇る月。静と動、対となるこの絵は産業革命真っ只中で描かれた。トラファルガーの戦いで活躍した最後の2等戦列艦の1つ「テメレーア」を解体するために新時代の技術を用いた蒸気船で曳航される様子を描いている。この作品のテーマは”時代の変化”。僕たちはその絵の前でしばらくの間、動けなくなってしまった。

年表順に並んだ絵画は歩を進めるごとに抽象的な絵になっていった。水面のような空のようなのっぺりとしたどんよりとした青い灰色の中に、暖色的な色が片隅に存在する。タイトルを見てこれは湖であって夕日であることを知る。
「描き進めるにつれて、光が抽象的になっていきましたね。」
ずっと黙って絵を巡回してきた彼女が最後のその絵ではじめて口を開いた。
「目に見えないものを描きたかった。。肝心なことは目に見えないって気づいたのかもしれないね。」
僕の台詞に彼女はクスッと笑った。
「星の王子様ですね。」
僕は照れて鼻下を手で隠した。
「高見先輩、喉が渇きました。メロンソーダでも飲みに行きませんか?」



僕たちは、卒業式はおろか入学式もろくにできずに大学生となった。上京してろくに友人もできず、狭いアパートの中で画面越しに授業を受けて気づけばもう社会人の準備をはじめている。時代の変化を感じずにはいられなかった。将来に対する期待より不安の方が膨張していった。でもどの時代にも誰にでも必ず存在するんだ。彼女とじっと眺めた絵の中にもあったように。


【あとがき】
描きたかった美術館デートをテーマにした短編小説です。現在開催中のテート美術館展を舞台に描きましたが行けてないので、来月からはじまる大阪展で行ってみたいなあと思っています。

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