見出し画像

ちょっと真面目な映画の話

ウーマントーキングという映画がある。
ショッキングな実際の事件をベースにしている映画で、「女性のエンパワーメント」に絡めてメディア記事が書かれているのをそこそこ目にした。
たしかに「男性優位社会における女性たち」の、「女性のための議論と決断」を描いているため、女性のエンパワーメントではあるが、女の人のための映画だと思わない(別にメディアもそう言ってプロモーションしていたわけじゃないけどね)。
むしろそういう書き方したら「そういうのどうでもいいわー」的な考え方・感じ方の人は遠ざからないかなと若干の不安はある。
自分は、この映画は老若男女問わず見てほしい、見ておく必要があると思う。
生きていくうえで覚えておきたいことがめちゃくちゃ詰まっている。

人間としての尊厳を傷つけられた女の人たちが、自分や自分の家族を物理的に傷つけ、個人の人格を無視して乱暴を働いたコミュニティの男の人たちに対してどう行動するかの話し合いを描いている。(実話を基にしている。詳しくは「ボリビア メノナイト」とかで検索するとヒットする)
その話し合いの中で、一番の年長者(多分)の女性が言った言葉が、自分にとっては目の前が開けるような、バッと世界が変わるような気分だった。
「赦しは許可と混同される、許可と受け取られることがある」
forgiveness(赦し)は過去のあやまちについてのことであって、permission(許し)ではない。
日本語はどっちも同じ「ゆるし」という音だから余計ややこしい。自分と誰かの間に何かが起こり、その誰かからごめんね、と謝られたとして、「ゆるすよ」は「やったことは責めない」というだけの意味であって、「これからも同じようなことやってもいいよ、しょうがないな」じゃない。
でも、後者のように思ってる奴が世の中にはすっげー多い気がする。もちろんそれはそいつらだけのせいじゃない。自分の言葉が足りなかったこともあっただろうし、そいつらの生きてきた環境とか受けてきた教育とか、あと時代の流れとかまあ色々あったんかもしれんし。
けど、自分にとってはもういい終わりにしよ、みたいな意味だったのに全然伝わってなくてがっかりすることが多かった。そしてそれは自分の心が狭いからだと思ってた、というか多分そう思わされた。

この「forgivenessはpermissionと混同される」という言葉をきいたとき、「自分だけじゃない」と気づくことができたのは、自分にとってすごく意味のあることだったと思う。
自分に自信のない人間なのと、あと家族に結構「自分がこうだったからみんなこう」と思い込むタイプの人間がいるので(今はそれなりに付き合ってるのであれだが)、一緒に暮らしていた頃は本当に、本当に何度も「自分は心が狭くて器が小さくて慈悲深くない哀れで最低な人間だ」と思い込まされてきた。
思い込ま「されて」きた。
ここは後述の「強要された赦し」にもつながる話だけど、周りからの圧力っていうか周りの価値観によって、こっちが違和感を抱くこととか嫌だと思うこと自体を禁じられて「お前は酷い奴だ」と言われることはある。本当にある。
だから自分が「これまでのことをもういいって言っただけでこれからのことは何にもいいよって言ってねーよ」みたいな気持ちになることは「優しくない」ことで「心の狭い人間の行動」で、「いつまでも子供じみた」主張で、「絶対良くないこと」として否定され続けた。
年齢を重ねるにつれてハッキリと自分の思っていることを主張できるようになり、自分の意見を自分で尊重もできるようになり、「謝ってるんだからゆるしてあげなよ」という言葉に「謝ったらゆるしてもらえると思ってんなら大間違いだろ」と返す刀で殴り返すようにもなった。
けど、誰かが、何かが、こうやって自分が抱いていた違和感とか言っても受け止めてもらえなかった考えとかを、ちゃんと言葉として表現しているのは、過去の自分をやっと肯定できる気がして、それこそゆるされたような気がした。

で、他にも印象に残ってる、というか「それだよめっちゃ大事それ!」と思ったのが
「強制されたゆるしはゆるしではない」
という台詞。
ここ最近の幼児教育とか育児とかでも言われているような、ちらほら目にする感じではあるのだが(多分自分がこういう感覚だから余計目に入るのかもしれない)、許してあげなよっていうのはある種暴力だ、みたいな感じのあれです。
幼児期から無理やり人間社会に適応するように、集団行動と秩序を乱さないための教育を受けたとき、多分結構な割合の人が言われたことがあると思う、
「XXちゃんが謝ったんだから許してあげて」
という意味不明の教育もどきのあれ。強制されたゆるしの典型的かつ一番接触機会の多い不愉快な存在である。
前項でも書いたけど、謝ったからってゆるすかどうかはこっちの話であってお前はゆるされることを求めていい立場じゃねーだろと思うことはとても沢山ある。いまだにある。
そして「ゆるしてもらうために謝って来る奴」はこっちが「もういいよ」的なゆるします発言をしないと高確率で「こんなに謝ってるのにゆるしてくれない」的な馬鹿げたことを言うし、何ならこっちを「心の狭い嫌な奴」扱いしてくる。
ゆるすゆるさないっていうのはこっちの気持ちの話なので、何かやった側がコントロールしていいものじゃない。まして何かしらのダメージ(フィジカルであれ、サイコロジカルであれ)を加えた方が言うことじゃねえだろ。そんなこともわかんねえのかよ。

ゆるすということは、何かされた被害者が、今後その話は持ち出さないと思えるかどうかの話だと思う。
人によっては一生言い続けるだろうし、言葉で謝るんじゃなくて自分がされたのと同じことをし返さないと絶対気が済まない!っていう人もいると思う。それを実行しているかどうかは別として。そういう人たちは、残虐でいじわるな性格をしているんじゃなくて、そのくらい酷い扱いをされたということ。でも、そのくらいの扱いを受けていても笑って許してあげない人は「ひどい」性格で「優しくない」人で「心が狭い」、「道徳心のない」人間みたいな扱いをされる。
それはどう考えてもおかしいだろ…。
その人がどれだけ傷ついたか、つらいか、苦しんだかなんて当人にしかわからないのに、なのに「ゆるしてあげなよ」とかぬかす奴らは「みんなつらいんだから」とか「そのくらい平気でしょ」みたいなことまで言ってくる。
あいつらほんと何なの?

自分以外の人の経験も、感情も、全く同じことを経験したとしても全く同じことを考えることはできないし、どう思ったかなんてわかりようがないからこそ、想像するしかない。自分はこれをやられても平気だろうけど、じゃあこの人はどうだろう、とか。そういう想像力があるから優しくもなるし、それが欠如していればぶつかることもある。誰が相手であっても想像は必須だと思う。
だが、物凄く不思議なことに、一緒にいる時間が長ければ長いほど、「想像力を働かせなくても、自分はこの人の気持ちがわかる」とかいうオカルト思想が芽生える人間はわりかしいる。
たとえば「血を分けた親子なんだから」(この表現すっごく嫌いなんですけど、まあ一応。生まれたてはそうかもしんねーけど今もう違うだろ)とかいうねちっこい親子愛が好きな人ってそういう想像力がまったくないし、よしんば想像したとしても自分の中の実際にあったサンプルしか使わない、他の可能性はすべて排除。排除っていうか、思いもつかない。そしてそのサンプルはせいぜい自分と自分の親っていう、めちゃくちゃデータが少なすぎてサンプルとしては全く役に立たないやつで、大学とかだったら教授から普通にやり直せって言われるレベルのやつ。
で、戻るけど、そういう「想像力なんていらない、一緒にいるから気持ちがわかる」教の信者は大体「ゆるしてあげて」を発動する。何でもないことのように。ティッシュ貸して、くらいの気軽さで。想像力がないから。やられた人がどれほどの屈辱と、苦しみと苦痛を味わって、目の前の人間を殴って罵倒して同じ目に合わせたいのを必死でこらえているのに、そういうのは一切考えない。考えられないから、いとも簡単に「こんなに謝ってるじゃない」とか言う。
それが「ゆるしてあげなよ」宗教の人の中でたった一つの正義で、正解だから。他の正解はないしそれを否定する人はすべからく悪だと思っているから。

完全に余談で経験則だけど、そういう奴らは何でか知らんが高確率で「仲良しであること」を絶対に破ってはいけない金科玉条かのように思ってるフシがある。
同じクラスの子とは全員仲良しじゃないといけない。親友を作らないといけない。嫌いだなんて口が裂けても言ってはいけない。地域のおじさんおばさんにはいつも愛想よく、こちらからハキハキとご挨拶しなければいけないし、自分は愛される地域の優良児童でなくてはならない。家族は絶対に仲良しでないといけなくて、性格が合わないなんてもっての外で、誕生日にはメッセージを送り合い、実家に頻繁に揃い、顔を合わせ、笑顔溢れる団らんの時を過ごし、あたたかで愛に満ちた家庭を作る一員を担わないといけない。
反吐が出る。
自分の場合小学校は地域の子どもの寄せ集め公立だったから、偶然同じ年に同じエリアで生まれたってだけの奴らと気が合わなくてもしょうがないと思うし、地域のおっさんなんてこっちが挨拶しても無視する奴ばっかだったろうが。家族だって、製造元が同じってだけで別の人間で、幼少期の経験は似ている可能性はあるけど結局考え方感じ方は別なんだから、気が合わない可能性の方が高いだろうが。
なのに何が「血をわけた家族」だよ。ふざけんな。

こういうことを考え出すともう聖徳太子の「和を以て貴しとなす」とかいうのが悪い!原因!とかはるか昔にまで思いが及んでしまうので昔のお札の人はすっこんどいてください(全部が全部悪いわけでもないしね、仲良くしましょうっていうのは)
ちょっと熱くなりすぎたので、他の印象深いところの話をします。

「地獄に堕ちても殺す」という、子を傷つけられた女の人の言葉は、彼女が敬虔な信者でありながら、信者にとって耐え難いであろう苦しみを受けてでも子を守り、愛し、そのために何でもするという強い意思と、そしてそれほどの憎悪を感じることだったんだなと、どれだけ非道なことをされたかをつきつけられるようだった。
特定の何かを信じてるわけじゃない自分からしたら、その言葉の本当の重さはわかってないかもしれないけど、彼女らの信じる教えで一番悪いことを受けてでもっていうのは、本当に、信心っていう不可触・不可侵なものすら踏みにじるレベルだったんだろう、彼女にとって。

この後若干ネタバレになるからあれなので読みたくない人このまま閉じてくださいね。ラストに触れてます。

オーガストは最後に「ずっと愛してる」って言って別れるんだけど、「ずっと愛してる」相手とはもう会えない。絶対に、二度と。戻ってくる可能性の話もしてたけど、多分、ないと思う。だからもう二人は会えない。
なのにずっと愛してるって笑って伝えて、オーナも笑顔で返す。あんなに美しく悲しい愛を告げるシーンあるかよ…。
二人はお互いを愛して、信頼していたけど、結ばれて家庭を作ることはできなかった。彼らの価値観の中で、結婚すること、家庭を持つことはおそらくものすごく幸せなことなんだろう。けれど、二人は家庭を作れない。女たちは男を置いて去ることに決めたから。
オーナとオーガストは物理的なつながりはないけど、二人はずっとお互いを想い合うし、オーガストが教えてあげた空の読み方、方角の知り方はあの女性たちの間でずっと教えられて行くことになると思う。それは二人が作った、美しくて優しくて、これからもあの女性たちの中で、その子孫の中でずっと続く、二人の愛と信頼を形にしたものだと思うと、もうそれだけで、胸がいっぱいになって、こんなに美しい愛はないと思う。

観ているときはなるべく何も考えずに見ていて(結構追うのに精いっぱいなところもあったし)、終わってから色々考えて煮詰めてることが多いんだけど、オーガストが「愛してる」って言ったシーンは一気に涙があふれたし、今思い出してもずっと涙が止まらない。泣きながら、溢れる鼻水を止められないままキーボードを叩いている(鼻かめよ)。

途中にわけわかんない個人の嫌悪の話したりそもそもがめちゃ長かったりで失礼しました。
とにかくこの映画は本当にいいものだよっていう気持ちをありったけぶつけたらこんなんなってもうた。
ウーマントーキングは公開年に早々とサブスクリプション公開になり、劇場で観てしばらくしてから家でも観ることができた。
同じ映画を何回も観るくらい映画が好きで、大体どういう映画も面白かったって言う方だけど、ウーマントーキングは本当に、久々に、観てよかったと心から思ったし、自分がちょっとしたインフルエンサーなら絶対めちゃくちゃ宣伝したと思う。そのくらいいい映画だった。
取り扱うテーマは重く、苦しみを伴うものだけど、ラストはとても明るい、未来が変わる気持ちになれるものだった。

今Prime Videoで見られますのでぜひに!

ここから先は

0字

¥ 300

この記事が参加している募集

映画感想文

お気に召しましたらぜひサポートをお願いいたします。 面白いもの・ことを探すのに使っていきます。