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疎外の時代とアイデンティティー・人類廃絶論

現代は疎外の時代である。それは病の時代である。
人々を苛む病、「自らの人生に価値があるかどうかが分からない」の正体は何だろうか。


人間は秩序と真理、普遍性と無窮を求める精神と、個別的、具体的、一時的であることを先天的に定められた頭脳と肉体を持つというギャップがある。それが「疎外」「嘔吐」、あるいは「生の不全感」「虚無的な絶望感」の正体である。様々な理由で、あるものは怠惰から、あるいは道徳からか、あるべき姿、なるべき存在が漠として内心に示されているのにもかかわらず、そのものになることが許されていない。


「嘔吐」の原因は個人的な理想と現実のギャップだけではない。社会的理想と現実の個人における境遇のギャップもそれを引き起こす。つまり、現代において政治的であることと生は無関係ではいられないのだ。
実存と政治、両面のギャップが極限まで大きくなったことが時代の病を顕在化している。

強靭な意志を持つものは己に普遍と個別における隔たりをなくすべく何かの行動をなすことを命じる。ある行動とは具体的な選択に他ならず、選択の繰り返しによって人はより個別のものになる。
普遍になろうとして一択の個になることを自ら決断するという逆説が生じるのである。
この逆説を理解しているかどうかが、自分を何者でもない従属物にとどまらせるか、それらの群れから脱するアウトサイダーになるかの分かれ目となる。

アウトサイダー:コリン・ウィルソンが提唱した概念で、社会の諸価値に背を向け自己表現を模索する者のこと


従属物の言い分はこうだ。
「ひとは何者にもなれず、無意味な現象に相対して右往左往するだけだ。求めるべきものは快適な生と安楽な死つまり幸福である。激しい求道はそれを自他問わず阻害するし、結局のところ人生が無為であるという事実は変わらない。幸福の追求以外に人生は何も為すに値しない」


何者もひとりの人間として生まれるという事実に個性というレッテルを貼りつけ、まるで何かをなした何者かであるかのように装う。相互承認こそ、他人と共存する唯一の理由であるかのようだ。来るべき甘い死を待つ間は一時の安楽を求めているに過ぎない。一般人の生きる目的が概して幸福であることはこういった理由である。要は人生の目的を創り考えだすことができないのだ。価値や意味は人工物である。本来、精神の機能とは意味を創造し、価値を比較して推し量り、破壊し、肯定し、否定することである。現代社会においては価値の創造はほぼ不可能な嘲笑の的になり、破壊は罪悪となる。ウェルメイドな既存の価値を肯定するか否定するかの二択しかない。それが人心を腐敗させる原因のひとつである。


創造能力の欠如だけではなく、実際に価値の創造は規制されている。自分の幸福が他人の不幸だとするならば、それを追及することは禁じられる。ゆえに幸福は多数の承認を得られたものに限られるが、そこには社会的地位に応じた承認の度合い、罪の濃度勾配が存在する。タックスヘイブンや過剰な経済格差は世界的な汚職というべきものであるが、それらを管理する獣物の権力ゲームが、その存在を許容する限り、不幸は概して下層に押し付けられる。下層の幸福の質と総量は相互監視の下で管理される。そこには自発的な幸福は存在しない。
全ての人生の目的が幸福にあるとすると、自他の幸福に貢献する能力がないもの、現状の幸福を肯定できないものは不幸の産生者であり排除や隔離の対象となる。よって大多数の弱者は幸福の敵とみなされる。SNSでのリンチ、インセル、フェミニズム、グローバリゼーション、表現規制、監視社会。全て幸福を目指しているゆえに新たな疎外を増やして失敗する。
幸福が権力ゲームと密告、監視によってのみ成り立つ社会において、成功者は果たして正気であるといえるのだろうか?

従属物の群れから抜け出したアウトサイダーはこう宣言する。
「実際に生活の場において、万人は他人の幸福を重要視していない」
「他人の幸福がどうでもいいものなのに、自分がそれを求めることを至上とするのは理屈に合わない」
「一般に幸福とは何かを問うた時、人は他者に共有されえない私利私欲を幸福の内容とするからだ。すべてまがい物である」

「では、求めるべきものとは何か?」

「どんな普遍的真理も、心と体と境遇をだれとも共有していない個人である限りそれが唯一無二の運命にはなりえない」
「ゆえに人生の目的は単なる画一的なものではない」
「一方で私自身が幸福となるよりも、もっと重要なものが、高雅な価値が存在するのも事実である」
「ゆえに人生の目的は単なる一過性のものではない」

更に悟ったものはこう結論付けるであろう。
「私は個別性、一過性の代表例であり自らの価値を追求することを人生の目的とする。そのことは軋轢を生じさせるが、全体としては普遍的調和をなすものである」
右翼的なアウトサイダーはより個別性を重んじ、左翼的なアウトサイダーはより全一の普遍性を重んじる。どちらにしてもゴールは一つである。他の誰にも追及できないが、知性をもったものならば通底する何らかの価値を求めることが必要なのだ。
この「悟ったアウトサイダー」は自己の目的を意志によって規定しそれを価値とするものである。そこには単なる自分本位の獣欲とは一線を画す公平性があるだろう。
質的に、権力ゲームの俗物性と同一の現象であるならば、放置してもそれを求める他人であふれかえっている。しかしアイデンティティーの問題は他ならぬ個が追及する価値を持つか否かが焦点となる。獣物には誰もが成り下がることができるゆえに獣は自分の価値を規定できない。他の豺狼との区別を規定できないからだ。


「悟ったアウトサイダー」、ここでは自己を意図し、成形し、規矩し、描き、演じることに自覚的になったものをここで仮に「覚者」と呼称する。
覚者は自分が定めた法則、綱領に自らを同一化させる。己という一過性の無根拠が価値を創造することを許可する。それは自らが意志を曲げない限り、あらゆる物理法則と同じくらい侵しがたい人工物となるだろう。


その時の覚者は、従属物とただのアウトサイダーがもつ実存的懊悩とは無縁である。覚者は覚者の規定した問題意識しか持たない。自己に対する支配力を得たものは誰よりもまず自己に対して美学的で誠実なものとなるだろう。あるいは敢えて社会一般で間違いとされることを行い、自分の異形なる正しさを誇示することになるだろう。他の覚者がその価値を認めること想定し、それは歴史的根拠による理論武装、普遍性、公平性を帯びることとなる。
他の覚者から吟味される可能性を無視したならば、己が価値が政治性を失っていることになる。それゆえに断片化された従属物と同じ状況に陥ることを許すとすればそれは怠慢である。一過性と普遍性を束ねた思想でなければ、孤立しいつか駆逐される。世にあふれる自称超人、病的なナルシストは覚者たりえずここで排除される。

アイデンティティーとは個別的・実存的価値と普遍的価値の止揚を目指す意識的営為である。それはすなわち、美意識そのものだ。

個別的価値の究極は獣物であり、普遍的価値の究極は実存を捨象したスノビズムの俗物、あるいは、貌を失くした自称聖人となる。なぜこのようなありふれた存在を理想にすえねばならない?何もかもあやふやな従属物よりましだという理由ならば、その自己憐憫は正しいのかもしれない。

一般社会を維持する権力と暴力の下らない点は、従属物の集合体がより多くそれを所有していることにある。従属物の権力は大多数の肉体と資源を所有するが自己に対する支配力を持たない。自己の価値を規定することが禁じられているからだ。
生存を維持する物資やカネを操ることが、精神を維持する前提であると思い込まざるをえない。お互いの幸福がお互いを人質に取っている状況は決して打破できない。

いったい何のために幸せを求めるのか?従属物はもちろん、覚者も幸せになることは拒否しないであろう。
大多数のものにとって、幸福は生きる目的である。そしてそれを強いられている。
しかし自己を規定し支配するものにとって、幸福とは人生の一部に過ぎない。一時的な気晴らし、娯楽、趣味、甘いデザート、どうでもいい消費物に他ならない。自己の目的を達成するための、いわば長旅における休憩のようなものだ。
そう定められなければ人生そのものが一時的な気晴らし、娯楽、趣味、甘いデザート、どうでもいい消費物になってしまうからだ。
それこそが、あなた方をむしばんでいる退廃そのものではないか。
幸せを追求する人生こそ、あなたが不幸な原因なのだ。
事実あなたが幸せであったとしても、あなたの人生はどうでもいい消費物にすぎない。
その価値観はあなたと隣人が共有し承認した社会によってつくられたものだ。
それはあなたが同意した妥協である。人生の目標を妥協したとするならば、
あなたは、あなた自身の価値観に照らし合わせても幸せではないのだ。

覚者は無根拠な価値を肯定し、自己の綱領を創造して同一化する。
それらひとり一人は自分で決めた何者かになってしまうので、もはや人類というアイデンティティーを持たない。知性に通底する何者かになってしまうので、やはり人類というアイデンティティーを持たない。

「私」は人類であるが、それ以前に具体的な内実をもった「覚者」である。
(もちろん、実際には覚者ではなくそれぞれの規定した呼称があるだろう)
具体的な価値を創造し、それを達成することを至上とするものである。
全ての思考する知性が「覚者」となる。このようにして人類はいなくなる。

これは人類廃絶論である。
いつかくる人類の絶滅を待つのではなく自らそれを選び取ることが退廃をしりぞける唯一の道となる。

私たちは生物学的な事実として人類に属しているが、事実としての人類にアイデンティファイすることを前提とした幸福の全体主義は、せいぜいが全人類を幸福にすることしかできないであろう。ゆえに全人類は不幸になる。
不幸な人類は己を苦しめ、いつか不可避の絶滅を迎える。
いや、現在も退廃の幸福を受け入れている者たちは、生きているといえるのだろうか?
そして自他の違いを、ゲノム、肌の色や出身、収入などの無数の代価可能物の混淆としてしか表現できないのならば、それらがあなたである意味や価値も代えがきくのではないか?

その意味で人類はすでに絶滅しているのではないだろうか?

考える知性を持つものに問う。美的感覚をもつものとして、どちらがよろしいか?
どちらの滅びが美しいのか?
自らを定めてあるべきものになるべく行動せよ。その果てに人の類はひとりとして存在せず、百億の宇宙が新たに生まれるだろう。




参考文献
コリン・ウィルソン「アウトサイダー」中公文庫
外山恒一と我々団HP 我々団 綱領http://www.warewaredan.com/main2.html
外山恒一 活動報告誌「人民の敵」
千坂恭二「思想としてのファシズム」彩流社

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