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休職日記「何かを書きたいけれど、書けない日々、僕はなぜ書こうとするんだろう」

 何も文章を書く必要はないのだ、誰かに書けと言われたわけでもないし、書かなくては生活ができないわけでもない。それなのに何で書くことをやめられないんだろう。

 休職してからこうして定期的にnoteに文章を書いて投稿している。アウトプットすることで自分の考えを整理したり、学んだことをまとめることができたり、よりよく生きるために文章を書くことは有用だから…とかそういう理由は全くのこじつけで、結局のところ何か創造的なことをしておかないと虚しくてやってられないのかもしれない。

 文章というのは凄いメディアで、書いたときの考えや気持ちが明確に文面に保存される。プラトンの「国家」を読んでいるのだけれど、2400年前にギリシャのアテナイでソクラテスがどんな会話をしていたのかを今でも読めるのは本当に凄いことだと思う。本を開くと2400年前のギリシャにワープできるわけだ。

 リワークに通いながら色々試行錯誤してはいるけれど、結局のところ自分は人付き合いが苦手なままで、ワイワイ会話をしたりするのは好きじゃない。「ヤマアラシのジレンマ」ではないけれど、人と人が触れ合うと軋轢が生じることもある。人は一人では生きれない生き物だけれど、群れの中にいることに耐えられない人もいる。

 振り返ると、人間関係で疲れた時に自分を助けてくれたのは「本」だ。本は時空を超えて書いた人と読んだ人を繋げる。でもヤマアラシのように傷つけ合う事はない。読んだ人は理解できる範囲で何かを受け取るだけだ。でも面白いもので、同じ本でも年齢や様々な経験を経てから読むと内容の受け取り方も変わる。そういう意味では自分を写す鏡で、だからやっぱり本は面白い。

 僕たちは何かと繋がりを持たなくては生きていく意味を見出せない。それは、大好きな人と一緒に過ごすことでも良いけれど、繋がりを作る相手は人間でなくても良い。音楽を聴いたり、絵画を鑑賞したり、美しい景色を眺めたり、動物と戯れたり、文章を読んだり…どんな形であれ「繋がり」を作る事はできる。

 だから文章を書く事をやめられないんだな、とは思う。自分は人付き合いが苦手だ、誰かと気持ちをぶつけ合って感情的になって、笑ったり泣いたり、一緒に何かに挑戦したり、遊んだり…そういうのは気疲れしてしまってクタクタになってしまう。それでも誰かと繋がりたいから、何かを伝えたいから、文章を書くんだろう。

 ということで、久しぶりの投稿にはなるけれど、こうして文章を書いている。休職ももう半年になる。色々とストレスの対処法や認知行動療法については学びを深めることもできて、生活習慣も整ってきている。最近noteの記事を気分が乗らなくて書き出せなかったのは、「ためになる」文章を書かなくてはならない気がしていたんだろう。別になんでも良いのだ、書くことは誰かと繋がりたいという気持ちの表明であって、それ自体に意味があるんだから。

 そんなことを書きながら思う今日この頃なのです。


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