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休職日記「孤独な夜には薪を焚べよう」

 両親が宮古島へ二泊三日の旅行へ出かけた、久しぶりに独りで夜を過ごしている。

 二十歳の頃から住むところを転々とし、去年までは田舎暮らしをしたくて、埼玉の奥地に10年程暮らしていた。

 静かな夜だ、ペットの犬と猫が寝ている。思えば、ずっとこうして暮らしてきた。東京も埼玉も変わらない。なんだか懐かしい気持ちになる。寂しくて、人恋しい。

 孤独に耐えれるほど強くないくせに、人が苦手だ。街を歩いていても、どこかに独りになれる場所を探してしまう。イヤフォンをして街を歩く。最近はJojiの曲にハマってよく聴いている。東京の雑踏を足速に行き交う人々
は皆忙しそうだ。そういう「気」を浴びていると疲れてきて、古びた喫茶店に逃げ込んで目をつぶる。

 浅田彰の『構造と力』は「はじめにEXCÈSがあった」という一文から始まる。難解な言い回しが多いのでちゃんと理解できているか分からないけれど。「人間とは過剰な存在である」というのはなんとなくわかる。

 ビックバンで誕生した宇宙が無限に広がり続けているように、人間には過剰性が備わっていて、常に「なにか」を探し求めている。自分がこうして文章を書いているように。でも自分が敏感なせいなのか、他者の過剰性を感じ過ぎると疲れてしまう。

 埼玉の奥地に移住したのも、そうした過剰性から逃げたかったからだと思う。何も変わらない、繰り返しの平凡な日常の中に幸福を感じたかった。自然が近い環境で、ゆっくりとした時間の中に身を置きたかった。脱成長社会なんて今は夢物語だと分かっているけれど、そうした循環的な暮らしができないかと思った。

 孤独な夜には自分の中の過剰性がパチパチと爆ぜているのがよく分かる。リワークで他の通所者から「〇〇さん(自分)は平凡な日常の中に幸せを見つけようとしていていいですね」と言われた。でも、本当はそうじゃない。そうでなければこんな深夜に、意味もなく文章を書いたりしない。あなたたちの望む過剰さに興味が持てないだけで、結局、平凡な日常に心の底から満足したことなんて、今まで一度もなかったよ。

 だから今日も焚き火に薪を焚べるようにキーボードを叩く。この欲求がどこからくるかは分からないけれど、書きたいんだから仕方ない。今までもそうだったように、今後もこの過剰さが自分をどこかへ連れて行ってくれるだろう。まあ、それも悪くないと思う。

 

 

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