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精神分裂病(統合失調症)という曖昧な診断と絵画(表現)

またまた精神病院勤務時代から……

長いです、まとまりありません、どうでもよい話です(^_^;)

病院のなかには入院患者さん向けに(外来患者さんも利用できた)様々なクラブ活動のようなものが開催されていました。

毎週1回、絵画教室、陶芸教室、手芸教室、茶道教室、華道教室……などが開催され、外部講師としてその道のプロをお招きしていました。

私たちコメディカルスタッフの一部がそれぞれの教室を担当していました。

私は絵画教室と陶芸教室に長い間関わらせていただいてきました。

そう、当時は描画療法とか芸術療法とか表現療法などと呼ばれていました。まぁ、病院内でやることはどんなことでも治療の一貫として○○療法になりますね(^_^;)

全ての表現は自己治療的側面を持っていますが、ソレを○○療法とするにはそれなりの構造化や手続きを整えたりエビデンスの蓄積が必要となります。

絵画教室での私の役割は……特にないわけで、患者さん達とお喋りしたり、一緒に絵を描いてみたり、ぼんやりしたり、ぼんやりしたり、ぼんやりしたり……でした(^_^;)

河合隼雄氏はそれを「中心を外さずただそこにいること」の大切さとして述べていましたが、達人技なのでそう簡単にはいきません(^_^;)

一応建前上は治療の一貫なので、描いている状況や描かれた作品を見て、ソレっぽい所見を書いたりもしていました。

統合失調症といえば……、古くは高村智恵子(智恵子抄)さん、今は草間彌生さんが統合失調症のアーチストとして知られていますが、2人の作品は全く違いますね。

私たちは統合失調症の方が描いた絵というと、つい草間彌生さんのような独特なものを連想しますが、それはほんの一部の方でして、ほとんどの統合失調症の方々は失礼な言い方で申し訳ありませんが、どちらかというと無味乾燥というか空虚というか、作品としてはつまらないものになってしまいます。

ロールシャッハテストの反応も同様の傾向を示しますね。

長年にわたり、毎週絵画教室に通っていたある患者さんは毎回描くものが同じで、自分が生まれ育った地の風景(沖永良部島)を描き続けていました。

当時その方(Aさんとします)は精神分裂病(統合失調症)と診断されていました(昔はちょっとよくわからない人はみんな乱暴に精神分裂病と診断されていました)が、たぶん自閉スペクトラム障害がベースにあり、今でいうところの統合失調感情障害(かつての混合精神病か非定型精神病)だったのだろうと思います。

Aさんは、いつも同じ風景(海に浮かぶ沖永良部島)を描いていましたが、病状が落ち着いている時に描くものはどちらかといえば絵としてはつまらないものでしたが、病状が良くない時に描くものはまるで別ものになり独特な芸術的な作品になるのです。

Aさんは、描かれる絵の変化から少しタイムラグがあって、病状に変化があらわれることがほとんどでしたので、描かれる絵がちょっと先の予兆サインにもなっていました。

また、別の方でほとんど喋らない(緘黙)方がいまして、その方(Bさんとします)も精神分裂病(統合失調症)と診断され、20年ほど精神病院の中で暮らしてきている人でしたが、振り返ってみるとBさんは自閉スペクトラム障害だったのではないかと思います。

Bさんもまた生まれ育った地の同じ風景(岩木山)を淡々と描き続けていました。

Bさんの描く風景に変化はなく、いつも同じに見えましたが、たまに黙って座ったまま何も描かないことがありました。

そんな時に病棟に戻りたいとか、今日は描きたくないとか……と言うこともなく、ただ黙って座ったまま過ごしていました。

そんな時には、Bさん自身や病棟になにかいつもと違うことはなかったか病棟スタッフにたずねたりしていましたが……、いつも特別なことはありませんでした(わからなかっただけかもしれません)

Bさんの描く絵はAさんのような変化がなく、そこから何かを読み解くことは困難でした。

描かれた絵や作られた作品から何かを読み取るというのは容易ではありませんし、私たちが何かを読み解くために描いていただいているわけではありません。

批評されたり、比較されたり、制限されたり、判断されたり、読み取られたり……ということのない、安心して表現できる場を提供することが大切なお仕事だったのです。

 実は安心な場というのは全くの自由ではなく、安心安全を担保すべく構造化が必要なので、時間や場所やそこにいる人などいくつかの条件が固定されていました。

私たちは様々な表現をしながら暮らしています。生きるというのは表現をしていくということで、全てが表現だと言っても過言ではありません。

姿勢や表情やちょっとした動き、ファッションや持ち物、日常のあたりまえのこと、得意なことから苦手なことまで、ありとあらゆるモノやコトが表現なのです。

 表現というのは内部の外在化と言えますし、私たちの表現のほとんどが非言語表現です。

それらは、誰かや何かとつながったり関わったりするために無意識的に駆使されていると言えるでしょう。

様々な非言動表現があるなかで代表的なものがアートで、なかでも描画(絵)の持つ治療的効用は古くから注目されてきました。

しかし、表現されるものに芸術的価値があるかどうかはどうでもよいことで、表現することそのものが治療的なのです。

実は様々な症状や問題行動も表現のひとつですし、対応行動だったり適応行動だったりもするのです。

治療をするということ、良くなるということには、表現を抑制するという一面があります。

これも極論ですが、全ての表現には何らかの必要性があるわけで、様々な表現とその必要性の関連について考えてみることは無駄ではないのです。

話がどんどんズレちゃいましたので、とりあえずこのあたりでやめときます(^_^;)

 

 

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