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どうして私はクズ男になってしまったのか

私はかつて、「下心を隠し、誠実さを装いながら女性に取り入ったり、宿願を果たした後は女性を捨てたりすることはしたくない。」と記していた。しかし、私はその言葉をひっくり返すようなことをしてしまった。ユキエちゃんという女の子と、付き合う気もないし、全く愛情がないのに、まさにそれらがあるかのように振る舞い、エッチなことだけして、連絡を一方的に断った(詳しい内容は「童貞マッチングアプリ体験談(3か月経過)」)。サイテーである。

では、どうして私はいけないことと知りながら、そんなクズの所業をしてしまったのだろうか。本記事では、そのことを徹底的に考えていきたい。もうこれ以上、人を無下に扱いたくないし、無下に扱うことで自分をこれ以上嫌いになりたくない。



理由①甘えてくる人に対する異常な嫌悪感


私はいつからか、甘えてくる人に対して異常な嫌悪感を持つようになっていた。いい大人なのに、自分でできることを誰かにやらせる人。頼みごとをする時に、上目遣いでにじり寄ってくる人。「察して」と言って発言を放棄する人。こうした人を見ると、「それ自分でできるよね?」とか「頼みごとするなら普通に頼んで。」とか「ちゃんと考えは言葉にして。何でこっちの労力使わなあかんの。」とか言ってしまいそうになる。
 
そんな私にとって、ユキエちゃんは最も忌むべき存在の一人だった。しかもユキエちゃんの場合、「女の子はこういうもんなんだよ。」という言い方で、甘えを正当化してくる分、とてもやっかいだった。内心私は、「女の子だからって甘えていい、ってわけじゃないから。」と思っていた。
 
それはそうとして、どうして私は、こんなに甘えてくる人に嫌悪感を抱くのか。実際私自身、小さい頃は親に甘えていたし、大きくなった今でも、「どうして俺のことをわかってくれないのだ」と親に不当な怒りを向けるほどには甘えている。自己矛盾も甚だしい。とはいえ、現実では自己矛盾に陥っているとしても、考えとしては、「自分でできることは自分ですべき」「強い人間は、人に頼ったり依存したりしないはず」という考えを持っている。だから、甘えたり頼ったりしたい気持ちがあったとしても、それを抑圧してしまう。だからこそ、自分ができないことを衒いもなくできてしまうユキエちゃんに嫌悪感を抱いたのだろう。

そう。本当は私は人に甘えたいのだ。頼りたいのだ。私は、早々にそのことに気づくべきだった。そして、実際に人に甘えたり、頼ったりすればよかったのだ。


理由②イケメンの驕りとルッキズム


私はユキエちゃんに会う前に、数名の女の子と会ったが、そのほとんどで写真詐欺に遭った。その中で、私は少しずつイライラを募らせていた。

「どうしてそんなことするんだろう?どうせ会ったら分かることなのに。」「最初にハードルを上げて幻滅される方が嫌じゃない?顔が写真と違うことで幻滅されるのもあるし、写真を盛って人を騙そうとする不誠実さにも幻滅されるんじゃない?いいことないじゃん。」

彼女たちに抱いていた思いは概ねこうしたものだが、とはいえ、写真詐欺をしたくなる気持ちもわからなくない。特に自分の顔に自信のない女性ならなおさら。

プロフィールに占める写真のスペースが広いマッチングアプリにおいては、そこでふるいにかけられることは少なくない。当然、顔写真を載せないという選択肢も可能だが、それだと信頼性がガクッと落ちる。そうすると、ふるいにかけられず、なおかつ信頼を得るために、加工した(かのように見えないように加工された)顔写真を載せることは理に適っている。たとえ、後で幻滅されたとしても、そもそも「いいね」してもらえないとゼロチャンスなのだから。

だからといって、こうした理解が、私の苛立ちを和らげてくれるわけではなかった。現に、それまでの女の子と同様に写真詐欺を働いたユキエちゃんに、それまで溜まった苛立ちをぶつける形になったのだから。仮に、女性側に写真詐欺を働く酌むべき理由があったとして、それでもなお写真詐欺は不当な行為で、私の苛立ちに一定程度の正当性があるとしても、それを正当なやり方で抗議せずに、今回のような行為で以て表現するのは、明らかに私は間違っていた。

ともあれ、どうして私は、女性が写真詐欺を行う理由を理解していてもなお、こんなにも腹が立ってしまうのだろうか。答えは単純。私が、女性の容姿にこだわりを持っているからだ。こだわりを持って、吟味して選んでいるのに、その吟味が会った途端に無に帰すからだ。    

しかしながら、「写真詐欺なんて当たり前のことなんだから、期待する方が悪い」とマッチングアプリ熟練者は言うかもしれない。確かにその通りなのかもしれない。だが、そんな熟練者とて、どんな顔の者でもいい、ということはないだろう。誰であれとは言わないが、多くの者は容姿にこだわりを持っているのではないか。人には当然、好みというものがあるのだから、それ自体責められることではないだろう。

と、このような一般論を語って、私は私の加害性を小さくしようとしてみたが、ここは自分に厳しく、徹底的に自分のことを見つめ直したい。確かに好みを持つこと自体は責められないかもしれないが、問題は、その好みがいかにして形成されたか、そしてその好みを基準にしてどのようなことが為されたか、ということである。

まずもって、好みがいかにして形成されたか、ということを考えただけでも私は問題含みである。肌の黒い人よりは白い人が好きだし、鼻が低い人よりは高い人の方が好き。つまり西洋中心主義的価値観を内面化している。これは容易に人種差別に転化する価値観である。また、私が容姿にこだわりを持っているのは、「イケメンである私には、綺麗な女性を振り向かせる力がある」といううぬぼれがあるからだ。言い換えれば、私は自分のことを、「綺麗な女性」を選ぶことができる特権的人間だという意識があるのだ。そしてそこには、イケメンは綺麗な女性と付き合うはずで、醜男は綺麗な女性と付き合えない、という考えが含まれている。これは人をその容姿によってカテゴライズないし分離している点で、明らかにルッキズムである。また、そもそもユキエちゃんを「いいね」したのは、おっぱいが大きかったからだった。選択の理由にそれ以外の要素、例えば、どのような趣味があるか、どのような価値観を持っているかなどは一切考慮に入れられていなかった。これは、女性を性的対象としてしか見ていない点で差別的である。

このように私の好みの内実を分析すると、私がユキエちゃんに抱いていた苛立ちは、写真詐欺にあったから、という単純な理由で片づけられるものでないことがわかる。つまり私は、容姿が想定していたものと違っていたことへの怒りだけでなく、「どうしてイケメンな私が、こんなブスと会わなきゃいけないんだ」という、ユキエちゃんの存在を劣位に置いた不当な怒りを抱いていたのである。


理由③道徳観の過度な個人化



私はユキエちゃんのような少女漫画的恋愛を理想の恋愛として憧れている女性のことをかねてより嫌っていた。ここで言う少女漫画というのは、冴えない女の子が学校一の美男子になぜか見初められて、学園生活が好転していくといった物語や、「俺のモノになれよ」とか女性を物象化しておきながら、「こんな弱い自分を受け入れてくれ」と母性を求めるミソジニー丸出しの男を描いた、ジェンダーバイアス満載の少女漫画を示す。もちろん少女漫画の中には、ジェンダーバイアスに細心の注意を払いながら描かれたものもあるし、ジェンダーバイアスがかかっていたとしても素晴らしい内容のものがあることは知っている。それを承知の上で、家父長的なジェンダー規範がストーリーやキャラクターに投影され、多くは女性に向けて描かれた物語を、ここではとりあえず「少女漫画」と呼ぶことにする(ちなみに「家父長的なジェンダー規範が色濃く反映された、男性向けの物語」として象徴的なのが、アダルトビデオである)。

私は、こうした「少女漫画」が範として示す恋愛観や、それを信奉している人間が嫌いだ。人の価値観は様々であるから、尊重しなければならない、ということは頭では分かっている。だけど中々受け入れられない自分がいる。というのも、こうした人間が無自覚に、家父長的なジェンダー規範を強化していると思うからだ。

私はあるいはここで誤りを犯しているかもしれない。つまり、私は「少女漫画」的恋愛観をよしとする人が押しなべて、ジェンダー規範に無自覚であるという偏見を持ってしまっている。確かに、中には無自覚な人はいるのかもしれないが、それと同じくらい、もしくはそれ以上に、自覚的に「少女漫画」的恋愛観を他の恋愛観と比較して善きものだと考えている人がいるかもしれない。本当に後者のような人がいるのか、いたとして「少女漫画」的恋愛観を選択的に選ぶ意図は何なのか、といった問題はとりあえず一旦置いておく。ここで私が問題にしたいのは、「少女漫画」的恋愛観をよしとする人が押しなべて、ジェンダー規範に無自覚であるという偏見を持っている自分についてだ。この問いを、事例に即してさらに具体化するならば、どうして私は、ユキエちゃんが無自覚に「少女漫画」的恋愛観を信奉していると判断していたのかということになる。

その答えとして、人を裁くことによって、優位に立ちたいという欲求がある。つまり私には、無知蒙昧な人間に真理を分からせることによって、自分が正しい側に立っていると思いたいという傲慢な欲求があり、その欲求を満たすために、ユキエちゃんがどんな考えを持っているかに配慮せずに、彼女を無自覚な信奉者と決めつけた。自分が日常的に抱いている思考や感情をモニタリングすると、そうした性向が見られないこともない。そして、今回も例に漏れず、そうした性向が表出されたと言えるかもしれない。

ただ、そうとも言えない理由もあるにはある。私は何もそうした欲求だけで、ユキエちゃんを「少女漫画」的恋愛観の無自覚な信奉者と決めつけたわけではない。では私は何によって彼女をそう決めつけたのか。それは彼女が語る欲求の主語である。

ユキエちゃんは、「~したい」「~してほしい」と欲求を語る際、必ず「女の子はこうしたら喜ぶよ」とか「女の子はこういう生き物なんだよ」というように「女の子」という大きい主語を添えた。もし仮に彼女が、自覚的に「少女漫画」的恋愛観をよしとしている者なら、わざわざ「女の子」という主語を用いず、「私」という主語を用いるのではないか。それに彼女は、私の射精後に「いっぱい出たね」と男性向けアダルトビデオではお馴染みの台詞を吐いていた。このことからも、「少女漫画」のみならず、アダルトビデオにも表象されているような家父長的恋愛観・セックス観・ジェンダー規範を、彼女が内面化していることが伺える。あるいはこうした見方も私の単なる決めつけだろうか。

いずれにせよ、私はここで自分の正当性を主張したいわけではない。そして、それによって私の為した愚行を軽く見積もりたいわけではない。私がこのように、ともすれば自分の愚行を正当化しうるような考えを示すのも、自分の愚行がどのような思考の道筋を辿って為されたものなのかを精査していくためだ。だからここでは、ユキエちゃんが実際に、「少女漫画」的恋愛観を自覚的に選んでいたか否かは脇に置いて、私が上記のような理由でユキエちゃんが無自覚に「少女漫画」的恋愛観を信奉していたと判断したという事実にのみ焦点を絞りたい。そうすることで私の愚行が愚行であったということにとどまらず、どのような理由で愚行であったかというところにまで迫れる。

そのために、改めて問いを設定する。ユキエちゃんのように、無自覚に家父長的なジェンダー規範をよしとしている者がいたとして、それゆえに、その人を裁いたり、痛い目に遭わせたりしてもいいのだろうか。
 
答えは当然、否である。というのも、差別的規範に無自覚な人間を裁くことをよしとする背景には、差別やバイアスは個人の能力によって超越可能なものであり、ある人は差別的規範や制度から自由になれるという考えがあるからだ。こうした考えには、差別的価値観が、歴史や生まれた家庭や文化といった外的要因によって形成されるものであるという視点が欠如している。換言すると、こうした考えにおいては、差別やバイアスは構造的問題に起因するものではなく、個人的な道徳に起因するものと捉えられている。

確かに、ある人が例えば女性差別的な価値観を有しており、実際にその価値観が、セクハラなどの直接的な加害として表出した場合、それはその人個人の道徳的問題と言える。しかし同時に、それは構造的問題でもある。どこからが個人の道徳的問題で、どこからが構造的問題であるかの線引きは難しいところであるが、一方に偏った見方をすることは何らかのひずみを生む。例えば、個人の問題に重きを置きすぎると、構造的不正義が不可視化されたり、構造的不正義に向くはずの怒りが個人に横滑りしたりする。そしてその結果として、道徳的に優位な者とそうでない者という上下構造が生まれ、より悪いことには、道徳的優位者が自身の優位性に酔いしれて、劣位者に身勝手な裁きの鉄槌を喰らわせることとなる。そう、今回の私のように。考えてみれば、私は道徳的優位者でも何でもない。私も差別的規範や制度の中で生きる人間の一人であり、多かれ少なかれ、差別的価値観を持ち、それを実際の行動で表しさえしている。

とはいえ、私は今回の愚行に及ぶ前にすでに、差別が構造的な問題でもあることを知識として知っていたし、差別を個人的な問題にしすぎることの不当性や不利益を自分なりに理解していたし、私が差別的価値観から免れない人間であることを自認していた。

にも関わらず、私は誤りを犯した。なぜだろうか。その理由を明らかにするためには、先のような理論的話だけでは不十分だ。私、つまりイケメン童貞という固有の人間の置かれていた具体的な状況について語らねばならない。


理由④イケメン童貞が置かれていた個別具体的状況


ユキエちゃんと会っていた時、私がどのような状態だったのかを詳らかにしなければならない。当時、私は大学を卒業して、就職のために大学時代に住んでいた土地から離れたとある都市に住まいを移していた。そこは縁もゆかりもないところで、私には知り合いは一人もいなかった。引っ越した当初は、新たな人間関係を築こうと、居酒屋やバーなど、いろいろな所に足を運んでいた。しかし、元来人見知りで人と仲良くなるには時間がかかる方だったし、日が経つと、新しい環境に適応することへの疲れが出てきて、段々と自室で孤独に過ごすようになった。職場で交友関係を築ければよかったのだが、私の職場には若い社員がおらず、同期と言える人もいなかった。それに先輩社員は、軒並み家庭を持っていて、プライベートで交流するということもなかったし、飲み会のような機会も全くなかった。

そういうわけで、私は縁もゆかりもない都市で、ひとりぼっちで過ごすこととなった。とはいえ私は、一人でいることは好きだったし、行きつけの喫茶店や、映画館や、本屋ができて、なんだかんだ新たな土地を楽しんでいた。

しかしながら、職場で研修期間が終わり、いろいろな仕事を任せられるようになって状況は一変した。慣れない事務作業、入社前に思い描いていたものとはかけ離れた仕事、様々な利害関係者が絡むゆえの複雑な人間関係、そして毎日のように課される残業。

「社会人ってこんなに辛いんだ。」

仕事帰り、一日が終わった安堵とともに、重たい疲労がのしかかった。休日になると、1週間蓄積された疲労ゆえか、体がだるくなり寝込んでしまうことも多くなった。「咳をしても一人」という句があるが、体が弱っている時にこそ、孤独がとても身に染みた。なんだかんだ一人で楽しんでいるつもりだったが、底の方では常に寂しさがあった。それがこの時期になると、強く意識にのぼってくるようになっていた。

金曜の仕事の帰り道、1週間の疲れで軽い頭痛を感じながら街を歩いていると、そこここに楽しげなカップルがいることにやたらと目がいった。そんな時、私の頭の中ではいろんな思いが渦巻いていた。

「どうして俺には彼女ができないんだ。」
「そこら辺のチャラい男より、俺は正しく誠実に生きているはずなのに、どうして俺は選ばれない?」
「こんな傲慢なこと考えてるから、モテないんだろうな。一見チャラい男の方が、俺よりも誠実なことなんていくらでもあるし。」
「いや、でも。男らしい男が結局、女は好きなんじゃないか?経済力あって、車持ってて、デートでは常にリードしてくれて、そんな男が結局モテるんじゃないか。だとしたら、世のカップルは旧弊なジェンダー規範を内面化した差別主義者なんじゃないか。もしそうなら気持ち悪すぎるな。」
「なんで正しい俺がモテないんだ、評価されないんだ。」
「こんなこと考えるってことは、俺は誰かに評価されるために正しくあろうとしているのか。それは真に正しいと言えるのか。」

歪んだ考えが浮かんでは、それを知性で打ち消し、また浮かんでは打ち消し、という忙しないいたちごっこが頭の中で繰り広げられていた。当時考えていたことをこうして書き出してみて、気づくのは、歪んだ考えには、「どうして俺が」という自分を過大評価するような、思い上がりも甚だしい考え(以下「思い上がりの思考」と呼称する)が多いことだ。当時はそんなことには気づかなかった。きっと、考えが歪んでいることにさえ気づいていないこともあったのではないだろうか。

しかし、今ならどうしてそんな考えが多く浮かんできたのかがわかる。私は当時、自尊感情が削りに削られていたのだ。職場では何もかもうまくいかず、自分でなくてもこの仕事はできるんじゃないか、むしろ自分じゃない方がいいのではないかと思っていた。マッチングアプリでは、「積極的じゃない男に価値はない」「良い人だとは思うけど付き合う気にはなれない」といった女性からの言葉や、いい感じだと思っていた人たちからの突然の音信不通などによって、「俺は男として価値がないんじゃないか」と思っていた。

きっと友人でも恋人でもなんでもいいが、安心できる人間関係が築けていれば、「俺はここにいてもいいんだ」と自分の存在を認めてあげることができたのかもしれない。しかし当時の私は、そのような関係を誰とも築くことができていなかった。故に削られた自尊心は放置されたまま、孤独ゆえの寂しさがその状態をさらに悪化させた。私は私が思い上がれるように現実を歪曲させないと、自分を保てなかった。

このような事情があったため、当初は自分の知性で以て歪曲した現実をありのままの現実に修正することができていたが、段々とそれもままらなくなっていった。そして、そのままならなさが行為として露呈したのが今回のユキエちゃんの件だったというわけだ。つまり、ユキエちゃんに対して抱いていた考えが誤りであることに気づいていたのに、不誠実な行為に及んでしまったのは、「思い上がりの思考」が頭を支配し、理性的な良心が働かなかったためだ。

これが当時の私が置かれていた具体的状況だ。私はこれを語ることで、「だからあのような裏切り行為を働いたことは致し方ないことだった」と言いたいわけではない。私がここで言いたいのは、理論の限界についてだ。つまり、フェミニズムやジェンダーに関する理論を学んで、自分の持っている思想や思考がいかに差別的だと知って、それを修正したところで、その当人が正常にものを考えられる状況でないとそれは意味をなさないということだ。

私は、理論を学び、理解を深めれば、それだけでミソジニストから脱却できると思っていた。しかし現実は違った。理論が実践に活きるのは、理論について正常に考えることができるだけの安定した心身状況、そしてそれを可能にする安心できる環境があってこそだったのだ。私は理論的世界に目を向けるあまりに、足元の実際的問題を疎かにしていた。こうした知性偏重も、きっと「思い上がりの思考」を生んだ一助になっていたことだろう。つまり、「私はこれだけフェミニズムやジェンダーについて学んだのだから、差別的な言動はしないだろう」と。

私はもう少し自分の内なる感情に目を向けるべきだった。辛いとか、寂しいとか、そうした感情をしっかりと認識していれば、どうすれば自分を楽にしてあげられるかわかったはずなのに。私がマッチングアプリを必死でしていたのは、もちろん女性とセックスをしたいという思いもあったからだろうが、それよりも安心できるつながりが欲しかったのだろう。私は恋人関係にこだわらず、友人関係でも何でもいいが、とにかく自分の思いや感情を共有できる誰かとつながりを持てればそれでよかったのだ。あるいは、職場ではもう少し先輩社員を頼ったり相談したりすればよかったのだ。もしかしたら、問題の解決にはならないかもしれないが、先輩社員も同じようなことを考えていたと知れて、少しは心が軽くなっていたかもしれない。

このように、私は実際的問題に目を向ける重要性を述べたのだが、決して実際的問題が理論的問題より重要だと言っているわけではない。というのも、実際的問題が引き起こされる背景を考える視座を理論が与えてくれるからだ。今回に関して言うと、私が自身の感情にあまり目を向けず、頭でっかちに物事を考え、職場でもどこでも誰かに助けを求められなかったのは、ジェンダー規範に原因の一つがあると考えられるからだ。つまり、「男性は理性的、女性は感情的」といった認識や、「男性は強くあるべき」という価値観が、私をして自分の感情に目を向けさせなかったり、人に頼ることをためらわせたりした可能性がある。

総括

先の記事で、私がした愚かな行いを明らかにし、今回の記事で、それがどうして起こったのか考えに考え抜いた。恐らくはまだ考えるべきことは残されているだろうが、今現在の自分にできることは最大限やったつもりだ。正直なところ、これらの作業はとても辛いものだった。誠実に書いているつもりが、どこかに自分の非を認めたくない気持ちが文章に現れた。そのたびに書いた文章を消しては、頭を悩まし、書くことから、自分と向き合うことから逃げた。前々回の記事から、2か月もの期間が空いたのもそのためだ。今はこうして、自分との対話を形にできたが、それでも本当にこれで偽りはないのか、という疑念はある。なので、これからも自分と向き合い続けていきたい。

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