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4月27日は哲学の日〜ソクラテスの生涯〜

※2500字以上の記事です。
 お時間のある時に
 お付き合いいただけると嬉しいです。

今日、4月27日は
古代ギリシアの哲学者、
ソクラテスの忌日で、

その追悼の意を込めて
制定された「哲学の日」です。

この日にちなみ、
ソクラテスのことを
調べてみました。

「哲学」とは

本題に入る前に、
「哲学」とは、
一体なんなのでしょうか。

【哲学】
①世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問。
とらわれない目で事物を広く深く見るとともに、
それを自己自身の問題として究極まで求めようとするもの。
古代ギリシアでは学問一般を意味していたが、
のち諸科学と対置されるようになった。
論理学、認識論、存在論、哲学史、倫理学などの諸領域を含む。
②自分自身の経験などから作りあげた人生観・世界観。
物事に対する基本的な考え方。理念。

『精選版 日本国語大辞典』

①の「哲学」が先にあって、
それと似た②のような
言い回しが出てきたのでしょうね。

その昔、海外から日本に
「哲学(philosophy)」の
概念が伝わった時、

「希哲学(きてつがく)」
と名付けられたそうです。

「希」「哲」
ともに別の読み方があり、

「希」は「希(こいねが)う」
「哲」は「哲(あき)らか」
とも読めます。

つまり、「希哲学」は

「物事をあきらかにすることを
 こいねがう学問」

なんですね。

時代が進むと、
「希」がなくなり、
「哲学」と
呼ばれるようになりました。

ソクラテス以前・以降

「哲学」はその名の通り、
物事の本質を明らかにする
学問でした。

その中には、
現在の「自然科学」にあたるものも
含まれていました。

時代が進み、哲学から
それらの要素が分離し、
別の学問へと派生したのです。

そして、哲学の歴史では、
ソクラテスが登場する
「以前」「以降」
と定義されることもあります。

ソクラテスが
それまでの哲学者と
大きく違った点は、

物事の真理への
追究のしかたの違いです。

それまでの哲学者の関心は、
もっぱら「事象」の方に
向いていました。

当時の哲学にとっては、
人間の周りにある環境を
理解することが重要で、

現代の自然科学と同様に、
「事象」を明らかにすることが
彼らの課題だったのです。

ところがソクラテスは
彼らとは違い、
人間の「内面」に着目しました。

自分自身を知ることによって、
物事の本質を
明らかにすることができる

と信じていたのです。

ソクラテスが生きた時代

なぜ、ソクラテスは
当時の哲学者たちとは違い、
「内面」の世界を
探究したのでしょうか。

そこには彼が生きた
時代背景が関わっていました。

ソクラテスが生きた時代は、
紀元前470年頃~
紀元前399年頃とされています。

ソクラテスが生まれたのは、
古代ギリシアのアテナイ
という都市で、

生涯のほとんどを
アテナイで過ごしました。

ソクラテスが生きた時代の
アテナイは、ペルシャの
アカイメネス朝による
侵攻をしりぞけ、

軍事国家だった
「スパルタ」とともに、
ギリシアの覇権を
掴もうとしていた頃です。

ライバルのスパルタと
和約を交わし、
均衡を保っていました。

つまり、ソクラテスの
少年期~青年期は
アテナイが隆盛を極めた
平和な時代でもあったのです。

そんな中、紀元前431年、
均衡が崩れ、
スパルタとの戦争が勃発します。

「ペロポネソス戦争」です。
(紀元前431~紀元前404年)

アテナイはこの戦争に敗れ、
黄金時代も終焉を迎えました。

ソクラテスが38歳の頃に
はじまった戦争ですが、
終戦した頃には60代半ば、

ソクラテスの人生も
残りわずかです。

そんな中で、彼の意識が
「万物の根源」よりも
人間の本質に向かったのは、
自然な流れのようにも
感じられますね。

「対話」で導く「不知の自覚」

そんなソクラテスですが、
若い頃から弁が立ち、
歯に衣着せぬ人だったようで、

当時のアテナイで隆盛を極めた
「弁論術」の分野で
頭角を現します。

【弁論術】
論じ合ったり、陳述するための方法。
紀元前5世紀のシラクサをはじめとする
シチリア島の諸都市では政変に伴って
所有権をめぐる無数の訴訟が生じ、
コラクスKorax、テイシアスTeisias(前480―?)が
法廷弁論のための教授を行った。
これが弁論術の始まりとされる。

『日本大百科全書(ニッポニカ)』

ソクラテスが特に重視したのは、
「対話」です。

相手にさまざまな質問をし、
それを論破することにより、
物事の本質に辿り着く
という考え方です。

そんな問答を繰り返し、
ソクラテスがたどり着いたのが
「不知の自覚」です。

(「無知の知」とも言われる)

古代ギリシアでは、
神が唯一の知者で、

人間の知性などは
それと比べれば
「無」に等しいとされていました。

だからこそ、ソクラテスは
「不知」を自覚することから
スタートしようと試みたわけですね。

ソクラテスは、だれかれ構わず、
通りを歩く人を捕まえては、
問答を叩きつけました。

相手の「不知」を
自覚させるためです。

そんなことをされて、
気を良くする人
ばかりなわけもなく、

ソクラテスに対して、
感情的になり、
殴りかかる人もあったようです。

そんな人に対しても、
ソクラテスは腕力で
対抗することは
決してありませんでした。

「どうして、抵抗しないのか」
周りで見ている
市民たちを前に
ソクラテスはこう言ったそうです。

「もしロバが
 僕を蹴ったのだとしたら、
 僕はロバを相手に
 訴訟を起こすだろうか」

『哲学と宗教全史』出口治明(p.75)

ソクラテスの死刑が確定

そんなことがあっても、
めげずに毎日、
通りに出ては問答を繰り返す
ソクラテスでしたが、

当然、論破されたことに
逆恨みする者も出てきます。

業を煮やした人たちが、
ついにソクラテスを
訴えたのです。

その罪状は、

「アテナイの国家が
 信じる神々とは異なる神を信じ、
 若者を堕落させた」

というものでした。

公開裁判では、
自らの弁論術を駆使し、
見事なまでの反論を
繰り広げたソクラテスでしたが、

その反論もむなしく
死刑は確定し、
ソクラテスは毒をあおり、
刑死しました。

ソクラテスには、
刑を免れられる機会も
あったようですが、

「法を遵守する」
という確固たる信念に基づき、
裁きを受け入れた
と言われています。

文章を残さなかったソクラテス

ここまで書いてきてなんですが、
ソクラテス自体の評価には、
賛否両論あるようです。

というのも、彼自身は
自分の考えを
文字として残すことを
否定しており、

こういったエピソードや、
彼の考えは、
もっぱらその弟子たちが
文字として残したものなんですね。

その中でも
特に、多くの著作を残したのが
ソクラテスの愛弟子、
プラトンです。

彼が敬愛してやまなかった
師について書いた著作が

客観的な資料として、
どれだけの価値があるのかは、
多少、割り引いて見る必要も
あるかもしれません。

そんなソクラテスですが、
こうして忌日が「哲学の日」
として制定されるくらいですから、

どんな人だったのか、
ザッとでも理解しておいて
損はないと思います。

最後に彼が残した
名言を引用し、
締めくくりとします。

自分自身が無知であることを知っている人間は、
自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。

ソクラテス

【参考文献】


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