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宗教思想と動物の問題の行方

こんにちは。久しぶりの投稿です。

以前別のブログ用に執筆したけど投稿しなかったものをここに供養しておきます。

人間による動物の搾取について議論するとき、キリスト教が批判の槍玉にあげられることがあります。キリスト教が(旧約聖書の創世物語が)西洋の動物中心主義の原因である、と。これについて、キリスト教を擁護するために反論をしておこうというのが以下の議論です。

noteに投稿するにしては浅学甚だしいので、ちゃんとした議論を知りたい方は環境の神学などの文献をあたってください。
あくまでも、こういう見方があるのかと視点を増やすぐらいの心構えで読んでいただけると良いかなと思います。

概要

まず初めに、もう少し今回の全体像を明らかにしておきましょう。まず、動物や環境の問題が議論される時に、時折見かけるのが、「西洋(近代)=キリスト教=人間中心主義⇨動物や環境の問題」と言う批判の構図です。人間中心主義とは、微妙に異なる解釈が幾らかありますが、「自然を人間のために存在するものであるとみなすこと」としておきます。この構図での批判は、リン・ホワイトによって初めに提唱され、その後各所で取り沙汰されることになります。私はその二つのイコールがあまり妥当なものではないと思っています。特に、後者の「キリスト教=人間中心主義」と言う議論は、キリスト教の旧約聖書の創世記を根拠とするのですが、創世記は人間中心主義とは異なる読み方をすることが可能で、そちらの方が妥当ではないかとも思っており、その点について議論したいと思います。次に、創世記の物語から、キリスト教が現代の諸問題へむけて発信しうるメッセージを提示したいと思います。その上で最後の章では、動物と環境の問題を「科学技術と宗教の分離」という視点から捉え直し、宗教がいかにして動物や環境の問題に取り組むことができるのかについて、僕が思うところの方向性を示すことにします。この話題については、キリスト教のみならず、仏教など他の宗教についても視野に入れ、また広く心理学までをも扱うつもりです。


ではようやく本論に入っていきましょう。張り切りすぎて大長編になったので、気になる項目のつまみ食いも推奨しておきます。笑

キリスト教と人間中心主義

この章は、「西洋(近代)=キリスト教=人間中心主義⇨動物や環境の問題」という構図を徹底的に批判しようと思います。まずは一つ目のイコールから見ていきましょう。
先に明らかにしておくと、創世記に明らかな人間中心主義は見られないというのが僕の立場です。リン・ホワイトと僕の意見が相違しているように、聖書の解釈にも様々あります。というのも、キリスト教は成立以来2000年ほどの間に、様々な場所で様々な思想と融合することで発展してきたからです。今の文脈で言うところの西洋は、ギリシア哲学の影響を大いに受けたキリスト教の一つの派閥の影響下であると言えます。ですが、そのギリシア的キリスト教こそがキリスト教の根本である訳ではありませんし、それだけしか派閥がないわけではありません。東欧教会であったり、アフリカ教会であったり、韓国の教会であったり、いろんな教会があります。その多様性を無視して、「キリスト教」を批判するのはなかなか無謀だと思います。
次に、「キリスト教=人間中心主義(⇨動物と環境の問題)」を考えていきましょう。創世記の記述が人間中心主義的であると捉えられるのは、以下の箇所からです。「神はご自分にかたどって人を創造された。(創1:27)」「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ。(創1:28)」これらの箇所の内容を指して、それぞれ「神の似像性」「地の支配権」と呼びます。神の似像性とは、27節にあるように、人間だけが万物のなかで神と同形であり特別な地位を与えられているという考え方です。僕は、この考え方には異を唱えません。問題となるのはむしろ後者、地の支配についてです。地の支配について、具体的に聖書に示されている内容は二つです。①エデンの園を耕し、守ること、②動物を命名すること(ちなみに、エデンの園においては人間に対して植物を食べることしか許可はされていない)。現代のキリスト教神学では、これらがそれぞれ技術と科学に対応し、それ故に技術と科学は人間に固有のものであるという議論もあります。ここで一つ提起したい問題があって、それは①で示されている技術によって動物や環境を搾取することを許されているものであるのかというものです。僕の答えは否です。まず、「耕す」という言葉は「’abad(ヘブライ語)」から来ており、この語が持つ別の意味に「(奴隷などが)奉仕する、仕える」があります。創世記の文脈に沿って解釈すると、①の役割は神の意志に仕えることでもあると読むことができます。また、神が世界を創造した後、「これを見て良しとされた(創1:25など)」と言ったことから、この世界は良いものとして作られたという「創造の善性」という教えがあります。このように、人間と世界の由来を創世記に見たとき、神の似像であり神の意志に仕える存在である人間が、神が創った良いものである世界を破壊しても良いのでしょうか。創世記の「支配せよ」という表現、またそれに由来する地の支配という考え方は、神の作った世界の調和を保つことであり、人間中心的な搾取というより(神の調和を保つと言う意味での)管理の責任であると解釈された方が良いと思われます。従って、人間中心主義を旧約聖書の創世記に由来するものだと言って、キリスト教を批判することは些か難しいでしょう。人間の特権的地位を認める教えが現代の状況に影響を及ぼした可能性を全く否定することはできませんが、その特権的地位は、傲慢や放蕩を許すものではなく、責任を与えるものであると捉えるべきだと思います。
また、仮に「西洋=キリスト教=人間中心主義⇨動物・環境問題」だとしても、西洋やキリスト教はただ事の端緒であっただけで、今となってはもはやそれらに全くの非難をすることなどできないでしょう。時に、西洋と東洋の二項対立によって、「西洋−環境破壊↔︎日本(東洋)−環境調和」とする論者を見受けますが、それは二つの点で非常に無理があります。一つ目に、日本も現代においては環境破壊に最も貢献している国の一つです。伝統として認められてはいるが実情と矛盾するような思想を持ち出すのはおかしいでしょう。里山を持っている地域が一体どれほどあるのかということです。二つ目に、西洋が人間中心的思考によって環境破壊を初めに引き起こしたとしても、その解決へといち早く動き出しているのも西洋だと思います。例えばヴィーガンのムーブメントは今や世界規模で広がっていますが、ヴィーガン協会ができたのはイギリスであり、動物愛護や動物福祉の活動もヨーロッパにおいて非常に盛んです。こう見ると、「西洋=キリスト教=人間中心主義⇨動物・環境問題」という図式は多くの点で妥当でないと思われます。


創世記から紐解く科学観

この章では、創世記をもう少し読み進めることで、科学技術に関するメッセージを読み取ろうと思います。人間は神の似像として作られ、善い存在であったわけですが、善悪の知識の木の実を食べたこと(堕罪)で、エデンの園を追放されます。追放後に、アダムとエバは二人の子、カインとアベルを生むのですが、カインによって人類史上初めての殺人が起こります。このように、善いものとして創造された人間も、善と悪の両義性を備える存在にな流のです。同様に人間の固有の性質である、科学と技術も善悪両義的なものになります。人間の使いようによって、善にも悪にもなりうるのです。創世記にはそれを表す象徴的なエピソードがあります。ノアの方舟とバベルの塔です。ノアの方舟は、地上のすべての生き物が死んでしまうほどの大洪水が起こった時に、神の啓示を受けたノアが方舟を作ることによって助かるという話です。バベルの塔は、人間が、天にまで届くような高い塔を建てようとしたことが神の怒りを買ってしまったという話です。それぞれの話は、技術の使い方として対照的です。ここから、技術の使用に際してはそれが善であるか悪であるかという判断をすることが求められるという教訓が得られます。
さらにもう一つ、重要なメッセージを示しておきたいと思います。まずエデンの園での堕罪に関して、アダムが善悪の知識の木の実を食べたことで、「土は呪われるものとなった(創3:17)」と言われています。また、先ほど少しだけ触れたカインとアベルの話では、アベルを殺したカインに対して、神はこのように言います。「今、お前は呪われるものとなった。お前が流した弟(アベル)の血を、口を開けて、飲み込んだ土よりもなお、呪われる(創4:11)」。これら二つの物語は、人間の罪の結果は人間のみならず、地上全体に行き渡るという、人間と自然の連帯性を示していると読むことができます。以上に示した二点とも、発展した科学技術による人間の活動によって地球が破壊されている現代に対して、鋭いメッセージ性を持っているのではないでしょうか。

科学技術と宗教の分離という観点から。未来へ向けて

これまで、動物や環境の問題においてキリスト教に向けられる、人間中心主義であるという批判に対して反論し、その批判の論拠である創世記はどのように読まれるのが良いと思っているかを示しました。また、同様に創世記から科学技術に関する現代へのメッセージを読み取りました。それでは、現代におけるその問題状況と、先述の聖書解釈を踏まえて、宗教はいかに振る舞えば良いのかという話に踏み込んでいきたいと思います。ここにおける議論は、①宗教間対話、②シナジーの構築という二つの軸で展開したいと思います。

まず一つ目ですが、この話は宗教間対話から始めるのではなく、前章で触れた科学と技術の善悪両義性について話すところから始めたいと思います。先述の通り科学技術は、話を戻すと、科学技術は価値判断によってその善悪を問われるべきだという話でしたが、その善悪の基準とはなんでしょうか。近代化以前、例えばキリスト教社会では、そこに共通な基準、また絶対的な善として据えられているのは神でした。このように宗教というものは、政治・経済・教育などあらゆる生活領域の基盤として機能していました。しかし、近代化の過程で宗教が、あらゆる生活領域から分離されるようになり、政教分離のような現象が他の領域でも起こりました。その中で、科学技術と宗教は明確に分かたれ、科学技術の分野に宗教などの価値観・価値判断を持ち込むことは禁忌とされている風潮があります。ですが、この厳しい断裂が、現在の動物や環境の問題に大きく影響しているのではないだろうかと思うのです。僕の知るところでは、今回このブログを書くにあたって参考にした芦名以外にも、ユングやマズローといった心理学者もその問題点を強く指摘しています。マズローにおいては、かれは心理学者ですが社会問題に大きな関心を持っており、科学と価値の融合という点は繰り返し強調しているところです。(マズローは科学と言ってその中に技術も含意していそう)
政教分離が多くの国で説かれており、また制度化された狭い宗教への関心が薄れている現在、科学技術の使用を判断すべきその基準は何に求めれば良いのでしょうか。その答えに至る一つの過程として、宗教間対話を挙げたいと思います。具体的な教理を見ると様々に異なる各宗教・宗派が、その違いを超えて認めうる基準を模索することが、必要だと思います。その対話の具体的な形や仕方を考えていくのがまた非常に難儀で、それ故にあまり進展が見られないのですが、もう一つ希望を述べるなら、イデオロギーなど広義の宗教に含まれるものについてもその対話を求めたいところです。それらの対話の基盤として、多くの学問的知見は今必要性が増していると思います。現代神学も然り、現代仏教学(?)も然り。さらに、宗派を繋ぐ媒介として僕は心理学を挙げたいと思います。宗教は共同体の問題でもありますが、個人の問題であり、同時に人間という種の問題でもあります。そこで、人間という種やその個人についての学問、心理学が有効なのではないかと思っています。名前を挙げるならば前出のアブラハム・マズローの心理学、一般に人間性心理学と呼ばれるものですが、これをひとつ推薦したいです。僕が最近傾倒しているのもあるのですが、一方で信仰や神といった概念を説明しうるものであり、他方で彼自身が世界平和への貢献、「平和のテーブルのための心理学」を志していたことから、彼を推している次第です。これを読んでいただいている読者の方の中には、名前を知っている方もおられると思いますが、今一度入門書などを読んでいただいて、その思想に触れて欲しいなと思います。それはさておき、このように科学技術と価値の融合のために、心理学などの諸学問を基盤とした(広義の宗教も含む)宗教間対話が必要であると感じています。

さて二つ目ですが、これは実際に動物や環境の問題に取り組むとなった際に起こってくる問題についてです。それらの問題に取り組み何か策を講じる時、それまでの生活に比べると自由を制限することが求められることになるのではないでしょうか。例えば菜食の選択について、制限とか不自由だと思うのは正しくないという主張もあると思いますが、今回は詳しく触れません。そのような具体的な話は、誰かがブログに書いてくれることを期待しています。今回指摘したい問題点は①個人は自由の制限に応じるのか、②全体主義的雰囲気が生じないか、それによって個人の犠牲が美化されたり正当化されはしないか、③途上国などにもその責任を押し付けることにならないか、という三点です。三点全てについてはまだ考えが及んでいないのですが、①について少し述べたいと思います。また飽きずにマズローの話をしますがお付き合いください。自由を制限することに個人が応じるのかという不安は、つまり動物や環境の問題に取り組むこと、利他的な行動をすることは自分にとってある種の苦痛を伴うことであると考えていることだと言えます。そもそもこの前提さえ覆れば、この不安は取り除かれることになります。つまり、利他的な行動がすなわち利己的であると思えるようになればいいのです。これをマズローは「シナジー」と呼びます。利他的な行動が同時に利己的となり、利己的な行動が同時に利他的であるような行動、またその関係をシナジーという言葉で表しています。シナジーが見られるのは、自己実現的な人間の特徴です(自己実現などについては、マズローについての書籍をご覧ください)。人間が心理的に健康に発達して(基本的欲求を満たして)、自己実現を目指す時に、人間はシナジー的な行動をするようになります。そのためには、自己実現に比べて下位の欲求を満たしうるような外部環境、社会が必要条件であると彼は主張しており、自己実現をしうる理想的な社会(ユーサイキアン)というものも構想していました。このマズローの議論から、問題点①について二つの道筋が見えました。一つは個人の自己実現を助けること、一つは自己実現しうるような条件を満たした社会を作ることです。
この二つについて、伝統的な宗教は果たしうる役割が非常に大きいのではないでしょうか。教会などの共同体において、個々の欲求の満足に対して寄与できると思いますし(神との関係のおいても可能かも)、一つの共同体としてユーサイキアンを目指すこともできます。一つの共同体レベルで何も変わらないと思うかもしれませんが、人と社会は共進化するもので、ミクロな前進がマクロにも多少の影響を与え、また逆も然りです。人と共同体は相互に関係しており、その共同体ともう一つ大きなレベルの共同体も同様であり、マズローはこのような入れ子構造をシンドロームと呼んでいます。個人の変化、一つの教会の変化、ある宗教の変化、全てが別の個人にも変化をもたらし、また世界にも変革をもたらすということを心のどこかに留めておいていただけると、良いかもしれません。

終わり

今回、キリスト教が人間中心主義的であるという批判をきっかけに創世記を読み直し、さらに動物と環境の問題に対して宗教が目指すべき方向性というものを、浅学稚拙ながらも示すことができました。僕は、現代においてもやはり宗教は深く考えられなければならないテーマであり、科学や政治と同様の重要性を今一度認められるべきだと思っています。この記事が、皆さんが宗教というテーマに触れる良い契機となれば幸いです。また、この記事やこのブログもシンドロームに大きく寄与する部分であると信じています…


<追記>
この記事を書くにあたって参考にした書籍を一部紹介します。
是非マズローの思想に触れて欲しいので、たくさん挙げておきます笑

・リン・ホワイトのキリスト教批判
 『機械と神:生態学的危機の歴史的根源』リン・ホワイトJr.著、青木靖三訳、1972年、みすず書房
・創世記に関する議論は、キリスト教学の教授である芦名先生の講義や著作から得たところが大きい
 『宗教学のエッセンス−宗教・呪術・科学技術−』芦名定道、1993年、北樹出版
・マズローの概要
 『マズロー心理学入門」中野明、2016年、アルテ
・自己実現について
 『完全なる人間」A・H・マズロー著、上田吉一訳、1998年、誠信書房
・科学と価値の分離について
 『人間性の心理学』A・H・マズロー著、小口忠彦訳、1987年、産業能率大学出版部
  →第2章
・シナジーとユーサイキアンについて
 『人間性の最高価値」A・H・マズロー著、上田吉一訳、1973年、誠信書房
→第5部
・シンドロームについて
 『完全なる経営』A・H・マズロー著、金井壽宏訳、2001年、日本経済新聞出版社
  →p.186からの章。シンドロームについては、p.188に注釈あり
  

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