いつか記憶から消えてしまっても

印象的な文章に出会った。

 隆治は思った。いまは富士山頂の葵も、ボウリング場の葵もありありと思い出せる。しかし、五年、一〇年と経てば、記憶はだんだんと薄れていくだろう。それでも良いのだ。記憶が薄れた分、葵は自分の一部として同化していくのだ。葵は自分の一部として、存在し続ける。自分だけじゃない、親や友人たち、凜子など多くの人の一部としてずっと存在し続ける。その証が消滅することは、未来永劫ありえないのだ。  
 そう、兄や父が自らの血肉になっているように、葵もまた自分の一部として。
やめるな外科医 泣くな研修医4

『葵』というのは、主人公『隆治』が過去に受け持っていた患者で、溌剌とした若さとは裏腹に病魔に蝕まれていた。

葵の担当医でなくなった後も隆治は彼女のことを献身的に支え続けたが、葵はICUで最期を迎えた。

そこからしばらくして、隆治は上記のような心情に至る。


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記憶が薄れても、自分の一部として存在し続ける。

死別のみならず、様々な"別れ"に同じことが言える。

別々の道を行き疎遠になった中高生時代の知人。
同じ時間を共有してきた恋人との別れ。
家族の死。

これまでに経験した別れ。
今後やってくるであろう別れ。


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自分という存在を支えている人間関係という網の目は、別れによって脆くなっていく。

大切な人であればあるほどその喪失は代替不可能で、ぽっかりとした風穴が空いたまま。

けれど風穴が残り続けるということは、その人が存在していたという証拠も残り続けるということ。

だから、その人との思い出がいつか記憶から消えてしまっても大丈夫。

来たるべき別れを過度に怯える必要もない。

そんなことをふっと思い、少し心が楽になる今日この頃。

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