結果論を、受け入れる(重力と釣り合う)

身体を感じて、身体を使おうとすると「物事は結果論である」ということが実感できる。いや、この言い方は不適当かもしれない。物事を目的論で進めることに「実感」が湧かなくなってくる。結果的にできてしまった、という世界があることを知ってしまうからだ。

人は、どれぐらい「自らの意思」で物事を成しているだろうか?コップに手を伸ばしてとるときに、本当にすべて「コップをとろう」という意思のもと行われたのだろうか?

最近の気づきに「重力と釣り合わせる」というのがある。武術の「脱力」をするということは、「力を抜いてリラックスすること」ではなく、「力の遍在をなくすこと」にある。「それそのまま」が「それそのまま」でいられる点を探していくことにある。バランスがとれている、というのも「揺らぎのなかで力の遍在がないこと」をさす。

「意思」の力は遍在をもたらすことが多い。なにかをしよう、と思うと、ついつい、グッと力をいれてしまう。「注意」とは、意識して使おうとすると、その構造上偏りを産み出さざるを得ない。

ならば、逆を考えよう。

無意識になれるなら、偏りは少なくなっていくのではないだろうか。もう少し踏み込めば、身体を身体自身の構造として捉えられれば、「意思」による遍在をなくすことができるのではないだろうか。

構造が、ただ構造として成り立つということは、「どんな姿勢をしてようが、どんな動きをしてようが成り立つ」ということである。

「どんなときでも成り立つとは」、「どんなときでも変わらないもの」があるはず。

では、「いつなんどきでも変わらずにあるもの」とは何か?

意志に関係なくしているものとして、まず、呼吸を考えた。息を殺すこと、の反対をすれば、すなわち、息を生かすこと、を気を付ければ身体は生き生きとしているのではないか?

しかし、呼吸は思ったよりも不安定であり「意識的」であった。常に成り立たせるためには、膨大な意志の力が必要だ。

次に、心臓の鼓動を考えた。呼吸よりも無意識的である。鼓動が全身て同期しているなら、全身が鼓動するなら、それは構造として一体なのではないだろうか?

しかし、鼓動はなかなか感じづらかったし、よく変わった。また、鼓動を感じるためにも、膨大な意志の力が必要だった。

さて、この身にあるもので、「普遍的に」「常時」「不変で」存在するものは、なんだろうか?とあらためて考えて、試してみて、途方にくれてしまった。

そんなとき、「重力」について思い付いた。そういえば、僕は「重力」によってものを、考えていたのだ(詳しくはまたの機会に)。

重力は、普遍的にある(すくなくとも、日常で生活する限りは)。
重力は、常時働いている(すくなくとも、以下略)。
重力は、不変的に存在する(以下)。

そう、重力を感じる点を探ればよいのではないだろうか。

実際に試してみた。座ってる状態で「重力に釣り合っている」均衡点を身体をあれこれ動かしながら、探ってみた。身体が構造としてあれる点、すなわち、意思の力なく、力の遍在を感じず(力み感がなく)、全身がゆるやかにつながる点を探した。

結果。

「姿勢がよくなった」。

これまで何度も何度も何度も何度も繰り返し「姿勢をよくしよう」と思ってやったきたどの姿勢よりも自然に、抵抗なく、力みなく、リラックスして「姿勢がよくなっていた」。

これは、まさに「結果論」である。

まだ「維持」は難しい、重力と常に釣り合いをとるようにはなかなか生活できない。これまでのクセが強すぎるのと、意思の力を借りようとしてしまうから。

しかし、これまでのどんな気づきよりも、自然に身体の状態をスッと整えられる気づきになっている。

これが、まさに息をするように常にできるように修行を積んでいこう。

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