社会課題へのアンサー。こどもの頃に現地の活動家にであえていたら?(インド)
こどもの頃、貧困など社会問題がこの世にあふれているのがなんとなく分かってきた頃、
だれかれ構わず大人である人たちに、ききたくてしかたなかった。実際にきいたこともあった。
社会課題についてどう考えているのかと。
当時ファッション業界への道を志していた時には、ファッションデザイナーに聞いてみようとしたこともあった。
その必要以上の服はだれを救うのか。
と。
世界に対する、いかりのようなぎもんだったような気もする。
こんな返事をもらったこともあった。
「世界のだれかを救う
その一歩目は身近なひとを幸せにすること」
大人になり、今インドの活動現場にいると、活動する人を間近にみていると、
それは、まとはずれで気休めで、こどもだましな教えだったのかもしれない、とも思えてくる
完全に否定する方向ではないけれど。
けれども。
まず自分を、自分のまわりを、と
とうに最低限以上のラインにいるにもかかわらず。
こどもの社会に対する純粋な疑問と怒りはいつしか、そうして大人によって、大人になる過程で紛らわされ
そんな問いを抱いていた自分はまるで若気のいたりで、きれいごととしてすら消化されてゆく。
「あ〜、学生のころは途上国に行ってボランティアしてたよ」
世の中なにも変わっていないのに。
個の充実感へと力を尽くしている間に、だれかがまたこの瞬間も放置され続けている世界を、私たちは知っているはずで。それでも沈黙をつらぬくのは、他でもない個を守るために他ならない。
個をまもりつづける人生と
誰も放置しない人生
一体誰が愛されるべき存在なのか、なにが美しいのか、なにが優しさなのか、賢さとは、命の価値とは。
こどもの時に、そこらのインテリっぽい人ではなく、実際に現場で絶望と向き合う方々に質問することができていたら、
そこから大人になった今までの間で
絶対的貧困に身を置くだれかをひとりくらいを救えていたのかもしれないと
とりとめのない、たられば論なのかもしれないけれど、絶対的貧困はある意味誰もがほんの少し手をさしのべれば救える人たちばかりだと、現場をみながら感じるようになった。
食料のない人に、さいていげん、あたえる
仕事が0の人に、いち、あたえる
絶望と孤独を感じるひとと、5ふん、はなす
それをつづける
そんなことだけで救える人たちがなぜ世界には残っているのだろうか。
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