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あの日 【ショートショート】

雨は先ほどよりは心持ち小降りになった。
私は香りを味わうにはぬるくなり過ぎたコーヒーを水を飲むかのように飲み干す。

そう言えば、あの日も雨が降っていた。。

そうそう、ちょうどこんな感じの店だった。歩道に面した部分は大きなガラス窓になっていてコーヒーを飲みながら道行く人の風景が見えた。
オープンキッチンがあの辺りにあって、あんな感じの髭の似合うマスターがいて、BGMも好きなナンバーだから覚えている。今掛かっているこの曲。

まったくあの日と同じだ。。

私はあの日をきっかけにある男と付き合い始めた。
出会いは共通の友人がいて、とよくある話だが、雨宿りをしながら一緒にお茶を飲んだあの日が大きなきっかけとなったのである。

今となってはあの日さえなかったら、と本当に思う。

ひどい男だった。
見た目は涼しくてまったく毒がなさそうに見えるが、その中身は金欲と愛欲にまみれていつも火照っているような男だった。
じっくり一年をかけて私から全てを吸いつくした後、涼しい顔をして去っていった。

しかし、あの店は確かこの街ではなかったはずだ。というか今私はどこにいる?
一瞬気が遠のくような、確かさのない不思議な感覚があった。

後ろを振り返る。
二階席に通じる階段があそこにあって、あの奥にお手洗いがあるのだ。
マスターの方を再び振り返った。ああ、服装まであの日と同じだ。間違いない。
弟が欲しがっていたブランドのレアなチェック柄のシャツだったから。

とにかく私はあの日とまったく同じ風景の中にいる。
あの日私はあの男と窓際のあの席にかけた。

その席を通して窓の外に雨の中一つの傘の中で楽しそうに語らうカップルの姿が見えた。
私は驚いて声を上げそうになった。
それははしゃぎながら歩く私とあの男の姿であった。すっかり変わり果てた今の私と別人のような明るく穏やかな表情の私。
「私」がこの店を指差して二人は店に入った。
私は慌てて顔を直接見られず間に別の客で隠れる位置に座り直した。

本当なら隠れるどころか今すぐにでも立っていってこの男と絶対付き合ってはダメ、とその場をなし崩しにしたい気持ちであった。
だが身体が動かなかった。どうしても身体が動かなかった。
だまって、この成り行きを見届けるしかなかった。
あの日の自分は恥ずかしそうにしている。そして、どうしたら気に入られるか話題を探している。間違いがない。私がその当人なのだから。
男はコーヒー、私はカモミールティをオーダーしたはすだ。
店員がコーヒーとカモミールティを運んできた。
そして、次に私は例の二階の手洗いに上がり雨の水滴を気にして化粧直しをするはずだ。
私は彼に会釈をして二階に上がった。

今しかない。
私は二階に上がった。急いで上がった。上がりながらどのように話したらあの時の有頂天の自分自身に伝わるのだろうかといろいろ言葉を選んでいた。
注意が散漫になって階段の最後のステップで躓いた。
こけないようにバランスを取ろうとしたのが却って悪かったか、通りがかりの男の人にぶつかってシャツに口紅をつけなからこけてしまった。
「ああ、ごめんなさい!」
男の人は、
「いえいえ私は大丈夫ですよ。気になさらないでください。それよりあなたの方が。。大丈夫ですか」
彼に言われて初めて気がついた。膝を少しフロアに擦ったようでかすれたように汚れている。
彼がハンカチをそっと貸してくれた。
そこで初めて彼の目を見た。

(ああ、ひどい土砂降り。大切な日に勘弁してよ!)
化粧直しを終えて、お手洗いを出たところで、男の人と女の人がぶつかってお互いに気使い合っている様子が見えた。その横をすり抜けながら、なんか、ああいう男、上手すぎてイヤ。女の人は跪いていたからよく見えなかったけど地味な感じだったな。あの男にうまく雰囲気作られて騙されないかなあ。
(そういうの傍から見たらよく判るのよねえ)

階段から彼を見下ろした。
涼しい笑顔でこちらを優しく見てくれている。
(他の人のことなんて関係ない、関係ない)
私は少しおどけるように最後のニ、三段を跳ねながら下りた。