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8年越しの3.11

以下は2019年3月11日に書いた手記です。

2011年3月11日は、中学2年生から3年生へ移る春休みだった。

大阪ですら比較的大きく揺れたのでびっくりしたのを覚えている。テレビではどのチャンネルをつけても地震と津波についてのニュースが流れていて、でも全くと言って良いほど実感が湧かなくて。

それどころかどのテレビ局でも延々と震災のニュース、CMはすべてACジャパンになっていたから正直あまり良い気はしていなかったくらい。それくらい、自分ごとにはまるで思えなかった。


あの日からすでに8年が経過したらしい。

震災に関するニュースや記事は日に日に数を減らし、最近ではほとんど見ることがなくなった。そのせいか、「もう震災は終わった」とか「復興が終わって元通りになった」とか、勝手に完結させている自分がいた。

でも、現実はそうじゃなかった。

陸前高田の沿岸部を初めて見た感想は「なにもない」(現地で働いてくださっている方には失礼かもしれないけれど、僕にとってはこの表現が一番ぴんとくる)だった。

高地から見下ろしたかつての港町は、ほとんどが更地になっていて、ところどころに瓦礫の跡が見える。
ぽつんと残る一本松は寂しそうで、一方ですごくたくましくて。現地の方々にとっての希望と言われる所以がわかった気がした(もちろん観光資源としての意味も大きいだろう)。

たくさんの土木関係者の方々が働いていらした。彼・彼女らの多くが大阪や九州など遠いところから来ているそうなのだが、近頃はオリンピック準備に労働力が奪われていて、人手が足りていないとぼやく声を聞いた。大会がもたらす弊害をはじめて身に感じた。

福島にも足を運んだ。

ボランティアのガイドさんにお願いして、様々な話を聞きながら被災した現場を見せて頂いた。津波によって流された学校や老人ホーム、たくさんの人が住んでいた家屋があったはずの場所は、基盤が残っていればまだ良い方で、ほとんどは更地になっていた。

被害を後世に伝えるためにあえて残されている建物は、その中身がどこから来たかわからないような木片や金属、泥で埋められていた。

問題となっている放射線。県内にはモニタリングポストと呼ばれる放射線量測定器が多く設置されていて、リアルタイムの線量を教えてくれる。住む人たちの心の支えになっているらしいが、その寿命は10年で、メンテナンス費用が莫大だから、現在では大幅な設置数の削減が政府内にて検討されているらしい。簡単な問題ではないけれど、そこにはきっと「コスト」で割り切ることのできない世界が広がっていて、だからこそ国を動かす人たちに必要なのは、そこで日々を過ごす人々に寄り添う誠意なんじゃないかな、と思った。

福島第一原子力発電所の近くには、未だ居住の許されていない帰還困難区域と呼ばれるエリアがある。ファミマとか回転寿司屋さんとか。僕たちが地元で見るような「当たり前」が、そのままの形で残されて、ただ一つ違うのは住む人が誰もいなくなったという事実だった。立入禁止のバリケードで囲まれた店内には遠目で見ても草が生い茂っていることが分かる。

眼の前に広がる無人の街は、まるで漫画の世界のようで、現実味がしなかった。


放射線は目に見えない。

だからといって闇雲に恐れていては事態は好転しないし、むしろ実情を見誤ることになる。

実は「普通」の生活を送るだけで、僕らは日々被爆している。自然放射と言うらしい。福島第一原発事故の当初は確かに高い数値の放射線が観測されたのだけれど、現在の福島、殊に被災地においては東京や大阪の生活被爆量よりも低い数値を記録するほど、除染活動が完了している。そんなこと全く知らなかった。知らないことが悪いわけではないけれど、知ろうとしないで勝手な推測を立てることは、風評被害への貢献になってしまっているのかもしれない。

原発に絡む政治の問題についても伺うことができた。域内に原発が位置する市町村をいくつか回ったのだが、震災から残存したいくつかの小学校を見ると、まるで高校かと思うような豪華な校舎を持っていた。原発設立にあたって、それを受け入れる市町村には電力会社から莫大なお金が入る。いわゆる原発マネーと言われるこのお金のために、市町村として積極的な誘致を試みる場合も少なくないらしい。

原発を地方に無理やり押し付けているという考えは、少なくとも純粋に事実とは言えなさそうだ。


石巻では、3.11の追悼式に参加させてもらった。「がんばろう!石巻」の看板は、有志の方が震災の1ヶ月後に瓦礫の合板を使って作ったものらしい。背景を知って、目の前で見て、テレビの画面上のものだったその文字に初めて血が通った気がした。

バルーンリリースで空に上った白・青・緑の風船は、それぞれが過去・現在・未来を表している。あいにくの嵐だったけど(今日は東北一帯で暴風警報が出ていた)、苦難を乗り越えようとする人間の力強さを表しているようで、美しくて、今日一番目に焼き付いている風景だ。

過去を忘れず、今を大切に、未来へ繋げていく。

8年が経った今、実際に現地を運んで、正直とても驚いた。3.11はまだ終わってなんかいない。ずっと続いているし、これからも続く。

地震に続いて起った津波。それによってもたらされた原発事故。

津波ひとつをとっても、その被害は一時的な破壊だけではない。塩害で土壌が不毛になれば作物を育てることはできなくなるし、地面が削がれて土地が低くなり簡単に水に浸かってしまうようになれば、以前のように安心してひとが住むことができなくなる。地盤レベルでの修正が必要になるから、復興には本当に時間がかかる。8年と聞けば長く感じるけれど、何十年何百年の間で築き上げられてきた街を元の状態に戻そうとしているのだから、8年なんてほんの僅かな歳月に過ぎない。

まだまだこれからなんだと、そう感じた。

実は当初、被災地に行って、見たこと・感じたことを言葉にして発信するか躊躇っていた。

そもそも被災地に足を運んでも、自分になにが出来るのだろうと思っていた。被災地を訪れる前は、バックパックで現地へ訪問して写真を撮ったりするようなことが、いま復興に努めている人たちや犠牲になった方々に失礼なのではと少し心配していた。観光気分で来るような場所ではないはずだから。

現地に着いてもその気持ちは変わらなかったんだけど、一緒に行った相方がパシャリパシャリとシャッターを押し続ける。挙げ句の果てに構図なんかにこだわりだしたからとても驚いて、「見世物じゃないんだから」という言葉がつい口をついて出た。

「わかってるよ」

彼女に言われた。

「誰かが伝えなきゃいけない。それは現地に行って現状を知ってる私だからできる。綺麗に撮らないとみんな見ない。だからこだわるの。」

ハッとした。

そうだよな。誰かが伝えなきゃいけないな。きっと自分にできることの一つは、いま目の前で見ていること、見聞きしたことを周りに伝えることなんだ。その伝え方にこだわって、もっと知る人を増やすことなんだ。本気でそう思えた。

実情を知った人間が口をつぐんでいたら、何も変わらない。


近頃、「当事者意識」についてよく考えるのだけど、当事者意識が形成されるフローは「知る→理解する→共感する→憑依する(そこにある負を解決したいと思うほど自分ごとに)」なのではないかと思うようになった。すべては「知る」ところから始まる。だからもっと「知る」人が増えるように、工夫しながら、発信しようと思う。

あと、「知る」と「理解する」の最初の2つのフローは、「実際に体験する」ことによって代替することができる。時間とお金が許すなら、現地に赴いて自分の目で見て、自分の手足で感じることを忘れたくないし、これを見て何かを感じた人が、また何かの行動をとってくれたなら、それはとても良いことなのだと思う。

まだまだ、これから。

2019年3月11日 岩手花巻の旅館にて
井上忠大

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