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生きるということ

いきなりなタイトルで圧強めですが、今多くの方が生き方に向き合わされている感があると思いますのでちょっと想うことなど書いてみます。

生きるって、大変ですよね。
経済的なこと、人間関係や自分自身のことに日々向き合うのはすごく力が要ります。

私も元来ややこしい性格なので自分の取り扱いに手こずったりしてきました。
思春期からは「何が本当か、何が正解か」を追いかけ自問自答。

頭の中は思考の争いが絶えず、「神様がいるのならなんでこの世に悪が存在出来るんだ!」と御神仏をディスってやさぐれてた時期もありました。

その頃の自分は激情家だったと思います。
怒りやすく、傷付いたらずっと塞ぎ込む性格に振り回されました。

やり切れない自分や他人、社会や世界に向き合うのはとても大変。

二十歳過ぎの頃には色々考え過ぎてとうとう不眠症になってしまいました。

そんな中で様々な人達と出会い、色々な気づきもあって今は大変な状況でも「味わう」という様な感覚で生きられる様になってきました。

もともと「世界に知らないことがあるのが嫌だ」という過剰な知識欲もあったせいか、宗教的なこと、精神世界や、武術の身体感覚操作の世界にも触れていき、昔では考えられなかった面白い自分を今生きています。

書き始めたらキリが無さそうなので一旦筆を止めますが、最後に今自分や世界に向き合い過ぎて大変な人に私なりの「楽になり方」をお伝えしたいと思います。

一つ!
深呼吸。

頭でっかちになっていると姿勢も崩れ、呼吸が浅くなり力を得られません。
意識がどこかに偏っていて、気が滞っている所もあるはずです。

そんな時は、呼吸などにより身体の側から意識や思考を変えることが出来ます。

全細胞が呼吸しているかの様に、身体全体で深呼吸してみて下さい。

そしてもう一つ!
思考の最前線に立たないこと。

最前線で戦う兵士にならないこと。
いくら考え込んだとて、力を浪費してるだけ。
頭でなく胸の奥あたりに自分を司令官として座らせる。
とりまいている世界を中立的に見る、観察するという感覚を養っていくこと。

感情は時に思考を刺激して「フィルター」を作り、世界を色眼鏡で見てしまうことがあります。

目の前に現象が起こり、それに対して感情が湧き、思考が生まれますが、それを胸の奥に感覚した普段とは違う「もう一人の自分」から観察するということ。

試していくうちに、この時自分はこう感じてる、怒ってる、悲しんでる、という風に観察出来てきます。

そうなると、自分のクセが見えてくる。
クセが分かると理解が深まる。
自分との折り合いもつけられてくる。
他や自分自身に優しく出来てくる。

頭が、思考が「自分」ではないということ。

胸の奥の自分に目を向け、それに感じさせるということ。

この「胸の奥の自分」の感覚を仏教では「仏性」と表し、神道では「惟神(かんながら)」といいます。

また、大我ともいえます。

自我は思考や感情にべったりの自分、大我は自分も含めた世界そのもの。

大我で生きること、仏の心、神ながらの道を生きること。

書くと大袈裟で
「私にはそんなのとうてい無理!!!」
となりそうですが、胸の奥から自分観察をしていくうちに必ず沢山の発見や気付きがあります。

深呼吸して身体を整えて、胸の奥から観察する。

すぐに現実世界にとらわれてしまいますが、時々思い出して何度か試してみて下さい。

やっぱり書き始めたら止まらなくなりそうなので、続きはおいおい記していきますね。

富士山からの夕方の景色。
空が必ず青いと誰が決めた?の図。

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