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美しい名前をつけること

いつか愛する人の子に凛とした美しい名前を与える。
例えばそんな未来のたったひとつの行為のために、今僕は泣きながら勉強しているのだと思うことがある。


アメリカに来て様々な人に会った。
当たり前のことだが出会った人間皆に彼らだけの名前がある。
以前よりもスペルやアクセントが全くわからないということは少なくなったとはいえ、ここは人種と民族のるつぼであって、未だに聴き直したり書いてもらったりすることも多い。
日本にいるときもそうだったが、名前を反芻してもらうことには相手の領域に一歩踏み込むという感覚がある。

僕らの一番最初の持ち物としての名前。
音が美しい名前。
端正な文字列の名前。
逸話や偉人にちなんだものから、父親と同じであることも珍しくない。その場合、序数が着くことも興味深い。
誤解をおそれずに言えば、元来の祖国や民族的なバックグラウンドを棄却してきた現代アメリカ人にも、名前だけにそのルーツをみることがある。

最近は意識して、相手の名前の意味を聴いてみるようにしている。

- Çağla
トルコがルーツの友達の名前は "Çağla" と書いて Chala のように発音する。意味を聞くと「未熟な果実」と教えてくれて、思わず固唾を飲んだ。
美しい名前。
よく考えると、僕はこれまで未熟という言葉を美しいと感じたことはあまりなかった。未熟は清新、無垢。果実は愛、そして命。
イスタンブールの青い夜、儚く光る苹果に子の未来の豊穣を願ったのだとしたらにくい。賢治のみた異国の夢のよう。

- Shanti
インド系の家族がいないのに、ヒンディーの名前を持っているシャンティ。彼女の代にカナダから家族で移り住んできた。
インドの言語で「平和」という意味があると静かに言っていた。
鈴がなるような綺麗な名前だねというと、照れながらもうれしそうにしていたけれど、昔は自分の名前が好きではなかったらしい。
今は、少し変わっているそれを気に入っているって。

大昔に、名前は一番短い詩だって金八先生が言っていた。
改めてそうだなと思う。
名前は最小の文化。芸術の生まれる種。

この細やかな習慣を相手も好意的に思ってくれていることを願いたいが、名前の由来を聴くとき、ある種の不安も拭えない。
名前はときにその人の過去を想い起こさせる。

僕は自分の名前にあまりいい思い出がなかった。
それを説明するのに、恥ずかしいような、重苦しく面倒な気持ちがあった。保守的な行為だとすら思った。
できれば適当に流してもらいたかった。
深い教養に裏打ちされているとも思わないし、声に出してみても変哲な響きがする。
また書くことができたらいいが、シャンティとはまた違った理由で名前を愛することができなかった。
そもそも、人間の都合であとから付けられた記号のようなものに意味なんてあるのかって屁理屈をこねた。世の中には名前を変える人だってたくさんいるじゃないか、と。そんな風に思っていた頃があった。
今だって少しもやもやとした思いがあると言ったほうが正直かもしれない。現にこうして筆名を使ってでしか表現をしていないひとつの理由でもある。


それでも、僕は以前よりもずっと、名前を大事にできるようになったと思う。
それは、これまで出会った人達が複雑な感情をこめて、何度も何度もそれを呼んでくれたおかげである。
自分の名前の背後に積み重なった他者の思いを感じるようになった。
誰かの美しい名前にその人の家族、そして大切な友人のことを思うようになった。


名前は過去と現在を背負っている。
名前は螺旋の系譜、瞬間的な詩。
そして、その人だけの未来。