90年代生、団地育ち。臨床医。「差別と格差」をテーマにアメリカで試行錯誤しています。

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マガジン

  • 限りなく現実に近い創作

    フィクションです

  • ヨクナパトーファの日々

    2022年アメリカ南部からの便り

  • 建築物は人間の夢をみるか

    移民の視点で「住む」を考える

最近の記事

花は死にとても近い

根拠はないけれど、楽園には萼(がく)から溢れそうなみたこともない芳しい花々がたわわに、所狭しと咲いているのだとわかる。 こちらに来てから初めて住んでいる街を離れ隣の州へ運転をする機会があった。 市街地から1、2時間も車を走らせると鬱蒼とした森林、広大な平地、大地を削るような大河がすぐそこにあり驚いてしまった。 序盤に、スコールのような大雨に遭ってしまって視界が一気に狭まったときは、ぞっとして急に速度を緩めなければいけなかった。 だがこうした雨は足が速い。しばらすると、夏らし

    • 美しい名前をつけること

      いつか愛する人の子に凛とした美しい名前を与える。 例えばそんな未来のたったひとつの行為のために、今僕は泣きながら勉強しているのだと思うことがある。 アメリカに来て様々な人に会った。 当たり前のことだが出会った人間皆に彼らだけの名前がある。 以前よりもスペルやアクセントが全くわからないということは少なくなったとはいえ、ここは人種と民族のるつぼであって、未だに聴き直したり書いてもらったりすることも多い。 日本にいるときもそうだったが、名前を反芻してもらうことには相手の領域に一歩

      • 谷川俊太郎の合唱曲にみる現代人の言葉、僕らと太宰治にとっての書くこと

        僕は芸術家でも文筆家でもないけれど、自分なりに書くことの意味を大事にしている。 自分に許された数少ない表現の手段として、一瞬の感情を忘れないために書く。 かつて太宰治は、書くということに関して「戒律」という言葉まで使って、義務であると言った。 だったと思う。 粋な職業作家の吟侍だと思う。書く理由として十分過ぎる。 太宰なんて例にあげて余りに特別過ぎると思われるかもしれない。人が書く理由は千差万別で、当たり前だがそこに貴賤などない。 谷川俊太郎がつい先月、合唱曲にまつわ

        • 現像とパトローネ

          こっちに来てから初めてフィルムを現像に出した。 一年近く入れたままだった20枚×2 のハーフサイズ。オンラインで申し込み、パッド入り封筒に入れて送るだけの味気ない作業で、次は写真屋さんに行きたいと思った。 その時点で日本より割高だったが、ハーフだとマニュアルだから追加で$10といわれ怯んでしまった。フィルムひとつ現像するのにに3000円近く払っていることになっていて笑えなかった。 どんなに好きなことでも何かを諦めてしまうことはあって、悔しいことにそれは経済的な理由であること

        花は死にとても近い

        • 美しい名前をつけること

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        • 現像とパトローネ

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        • 建築物は人間の夢をみるか
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        記事

          イサムノグチがヒロシマに残した「死者への追悼」

          序文 この地底のどこかに眠る原始の古墳を想像したそのとき、権威的なアーチの威光は濁る いずれも失われた命や未来には結局のところ何もできないままに (最初に、この文章は芸術人の苦悩や経験に焦点を当てその作品の在り方を解釈したものであって、祀られた人々や敗戦そのものに対して意見を言うものではない。戦争により失われた尊い死者やその家族達への敬意は別で記しておく必要がある。改めて人類にとって平和祈念公園の価値は無限大であって未来へ永劫伝え残していかねばならぬと前提をおいて。)

          イサムノグチがヒロシマに残した「死者への追悼」

          ジョグジャの石臼

          ジョグジャカルタ、現地ではジョグジャと呼ばれる。 インドネシアの人たちが話すと「ヨグジャ」なんて聴こえたが発音には自信がない。語学には耳が良くないといけないなんて残酷なことを言う人がいるが、自分の耳が良いか悪いかなんて皆目見当がつかないので、要はそういうことなのだと思う。(少なくとも自分が音痴なことだけは経験からわかる) ジョグジャはインドネシアの日本で言うといころの京都みたいな場所であるらしい。 当時付き合っていた恋人が、ある日、インドネシアにビジネスを勉強しに行くと言い

          ジョグジャの石臼

          三千院の観音像とダムタイプの共存する京都 2/2

          炎天下、タオルで拭っても拭っても汗はふきだす。 夕方の木陰はまだ歩くことができたので、ゆっくり食事を終えてから、閉まりかけの三千院を見学した。 初めての場所だったが、きっともう一度訪れたい場所になった。さらに大人になってから訪れるとまた一味違うのではないかと思わせる奥ゆかしさと親しみやすさのある空間だった。 (前回の続きです) 美しい立体的な庭園を抜け、苔むした院の周りぐるり、緑色の世界は永遠みたいだった。 中心には極楽堂が静かに鎮座していた。有名な「大和座り」の観音

          三千院の観音像とダムタイプの共存する京都 2/2

          三千院の観音像とダムタイプの共存する京都 1/2

          日本を離れる前に行きたい場所のひとつに京都があった。 人もまばらな鴨川周辺に驚きつつ、真夏の古都の暑さを逃れるように大原へ向かう道がとても快適だった。 過去・未来に囚われずにと言おうか、何人によっても妨げられない意志を貫き、その瞬間を無邪気に過ごせることが以前より少なくなった。その日は幸運にもそんな時間だった。 昼には、もう数年は顔を見たくないくらい大量の(豪勢な)鮎、鮎、鮎尽くしを食べた。東京にはあまりない、地に根ざした快適な上品さのある地方の山の辺料理だった。 記

          三千院の観音像とダムタイプの共存する京都 1/2

          日本にある異国「ベース」に住む、そしてモルダウが流れる

          ベースと聴いて米軍基地であるとすぐに思い至る人はきっと身近にベースがあった人だと思う。 少し特殊な響きをもって呼ばれる土地。日本であり異国でもある土地。 「ベースの中」に住んだ日々は、その物々しい響きとは裏腹に粛々と、そして予想外に美しい景色と共に過ぎていった。 思えばその頃から点々とする生活が続いていて、今だって相変わらずアウェイばかりの人生なのだが、海の側のこの場所では一年以上を過ごすことができた。少しでも腰を落ち着けられたのは数年ぶりだったし、公私とも穏やかだったの

          日本にある異国「ベース」に住む、そしてモルダウが流れる

          インドの建築都市でコルビュジエの見た夢を思う

          「セクター1はこの街の『頭部』である」 2019年夏に訪れたチャンディーガルという街の紹介文はこう始まる。 1950年に一人のスイス人建築家によってインドの北部にひとつの建築都市が造られた。 街は格子状に切り取られた「セクター」に分割され、各々番号を振られた。人体の有機構造に沿って、それらは頭部や「心臓」、「肺」といった身体機能にちなんだ特徴を備える。 まさに人間によるクリエイション、という言葉が浮かぶ。神の模倣というと少し大げさだろうか。 "creation" つま

          インドの建築都市でコルビュジエの見た夢を思う

          アメリカ南部から象設計集団のつくる色彩を思い出す

          2019年夏、沖縄を訪れた。 ひとりで青いレンタカーを借りて戦跡を回った医大時代以来の訪問だった。学生時代のこの島の記憶は、皆、戦争に繋がっている。 それはひめゆりの暗い洞窟。静寂の資料館。美しすぎる海。孤独なドライブ。海辺で読んだエーリッヒ・フロム。灼熱。 医学生時代に1ヶ月ほど沖縄を旅した。 当時民俗学的なナラティブの世界に興味があって、地方の祭りや寓話を調べていた。ただの旅行の理由付けだったかもしれない。 いづれにせよ、湧出する好奇心を放し飼いする学徒の道程に、あの戦

          アメリカ南部から象設計集団のつくる色彩を思い出す

          さよならだけが人生ならば

          (タイトルは引用、寺山修司『幸福が遠すぎたら』より) 以前の職場で、それはある種の研修プログラムだったのだが、卒業するにあたって記録アルバムの作成を担当した。 ちょうど学校の卒業アルバムのようなもので、外国人ばかりの職場で毎年作成している。内容は英語で、かつかなりユニバーサルなフォトアルバムと人物紹介が一緒になったような小冊子だった。 写真も文章も好きなのでふたつ返事で担当を名乗り出たものの、年度末の繁忙期も相まって文字通り三日三晩かかってしまった。 そういう時に限って遠

          さよならだけが人生ならば

          フィルムカメラの重み、記憶の軽さ

          あとX日 僕は渡米する。少なくとも数年は帰らない。 記録を形として残すためにフィルムカメラを手に入れた。日本製で長く使えて、何より手に馴染むものが欲しかった。 きっかけは何でもよかったのかもしれない、単純にずっと探していた。 にわかにも関わらず、ハーフフィルムカメラの中では少し珍しい1964年製のYashica Half17を写真屋さんに勧めてもらった。重厚な手触りに涼し気な流線型が同居していて、恥ずかしながら機能なんかそっちのけで造形に一目惚れした。メカへの愛というものが

          フィルムカメラの重み、記憶の軽さ

          都会の波止場としての東京海上ビル③ (終)

          半地下で吹き抜けとなった庭園に降り立つと、その小さな面積の割に頭上に広がる視界の広さに驚く。周囲のビルがなかった時代はもっと美しい場所だったのであろう。 「敷地に公共的なスペースを確保すること。それが唯一、超高層が許される条件だ」 とは反対派と闘い、着工へこぎつけた前川の言葉だった。 (前回投稿の続き) 前川は都市建築おける高層ビルの在り方を模索し実現した。 彼はこのビルの敷地に緑生い茂る開放空間、都市に光を取り入れ人々が集う場を作った。マルセイユのユニテ・ダビタシオ

          都会の波止場としての東京海上ビル③ (終)

          都会の波止場としての東京海上ビル②

           「東海ビル取り壊し」のニュースを聞いたとき、束の間、僕は心を奪われてしまった。ビルの持つ歴史的な事実とは異なる、ある種の個人的な感傷が想起された。  都会の余所行きな街路樹が朝露に濡れる頃、東海ビルには日本中から夜行バスが漂着する。 (前回記事の続き)  日本人口の9割を占める「地方」出身者にとって「上京」という言葉には過去や未来、恋や友情、希望や絶望が詰まっている。実態はない、誰もそれをみたことがない、幻影、概念、巨大なコンクリートの森林、あるいは小さく透明な蝸牛(

          都会の波止場としての東京海上ビル②

          都会の波止場としての東京海上ビル①

          また東京から建物が消える。歴史的には東京の都市化の象徴であって、ある個人的な視点では地方出身者にとっての冷たい朝露の降りる波止場だった。 東京海上日動ビルディング(東海ビル)は戦後の超高層ビルの先駆けだった。 コルビジェの影響を受けた昭和建築の巨匠、前川國男唯一の超高層建築は、1963年の建築基準法改正で「市街地建築物法」が撤廃されたことで可能となった。 それまでの建造物には「百尺規制」と呼ばれる、31mの高さ制限があったのだから時代を感じる。 計画立案のされた当時、それよ

          都会の波止場としての東京海上ビル①