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月に吠える/HOWL(下)

昨日は友人と長い夜の散歩をした。およそ5年ぶりの再会だったが、そんなことは本当にどうでもよかった。居酒屋を出てなんとなく「散歩しようぜ」となり、閑静な住宅街を足の赴くまま歩き続け、幾つもの公園を見つけた。

私たちが一番気に入ったのは、とある団地に囲まれた毛虫のような遊具(正式名称ウゴウゴ)のある公園。最初は「これ岡本太郎の座ることを拒否する椅子じゃん」と笑っていたけど、心が幼児なので、すぐに遊び方をマスターした。

その後、ブランコを二人で交互に漕いで、たわいもない話しをした。

私は近況報告をしたついでに、「心を開示することには常に痛みが伴う」と打ち明けた。友人は静かに「分かるよ」と頷いてくれた。これまでの経験上、そもそも話したことを後悔するような間柄の人には絶対話さない。だからうそ偽りなく、私が選んだ相手に自分の胸の内を話すことに対して「嫌だ」という感情はない。それでも心のどこかに痛みが生じてしまう。

ただ、相手に話したからこそ反応が返ってくるし、その言葉によって私の心が和らぐことがある。

だから、話すことはやっぱり大切だ。

ふと、そんなことを思った夜。前置きが長くなったけれど、下書きを書いては消してきたROTH BART BARONの「月に吠える」という曲にまつわる最後の文章を書こうと思い立った。

⬛月に吠える/HOWL(下)
私が群馬県へ慰霊登山に向かったのは、2週間前の日曜日のことだった。
その日は、花束をささげたい故人が2人いた。

かつて事故で焼け焦げた山も30年以上がたって、緑美しい木々が生えるようになった。

1人目は、今年8月に別の山中で滑落死した知人の男性だった。彼は若い頃、この山の上空で起きた飛行機事故で遺族の支援に携わり、「俺も定年退職したらゆっくり登りたい」と言っていた。

彼の墓標はここにはない。代わりに目指したのは、小石を積み上げたケルンがある場所だった。(以前登った記憶だと、登山道脇のどこかにあるはずだった。)青いかすみ草とシロツメグサの花束を手に、少し緊張しながら登山道の入り口を通った。

意外にも、登り始めてすぐにケルンは見つかった。

同行者の夫妻には「先に行っていてください」と声をかけ、1人で花束を包んでいたビニールをはがし、水の入ったペットボトルに挿した。天国に幸せがあるのかどうか分からないけど、花を供え、手を合わせてただ祈った。

ほんの少しだけ、気持ちは軽くなった。
唐突の別れに対して「さよなら」を言えなかったことが、自分にとって苦しいことだったのだと分かった。

心の置き場を勝手につくっているようだけど、人には自分の気持ちを消化するために、亡き人を思うために、祈る場所が必要だと思った。

ケルンには山の道しるべと同時に、遭難者を弔う意味もある。


2人目は、この山に墜落した飛行機の搭乗者で、まだ学生にして命を落としてしまった、父の大学時代の後輩だった。

彼がどんな人であったか、父とはどんな関係だったのかは全く知らない。ただ、両親と同じ大学に通っていた。父とは同じラグビー部の所属だった。父は生前、背番号2のゼッケンが付いたユニフォームを時々引っ張り出して彼のことを思い出していたと、後になって母から聞いていた。

墓標は山頂付近にある。古ぼけた木の板に貼り付けられた笑顔の写真を見ると、きっと優しい人だったのだろう。だから私は勝手ながらも「この人なら許してくれるはずだ」と、家族の近況報告もすることにしている。

この日は、白い小菊とピンクのカーネーションを供えた。
しゃがんで目をつむり、静かに手を合わせた。

父が亡くなって1年がたちました。
母はがんになり、もしかしたら5年の命かも分かりません。
正直、私にとって2022年は大変な年でした。
いつかここで両親の死を報告する時が来るかもしれません。

そう心の中でつぶやいた瞬間、涙がぶわっと噴き出した。ぼろぼろ、ぼろぼ
ろ、地面にこぼれ落ちた。

自分自身、まさか泣くとは思っていなかった。
涙をとめられず、そこでしばらく立ちすくんでしまった。

ほどなくして同行者の女性が後から追いついてきて、「いたいた、泣いてるじゃん」と言って隣に立ち、そっと肩を抱いてくれた。女性は「どうしたの?」と聞くのではなく、「つらかったね、泣いちゃうよね」と言いながら、一緒に涙を流してくれた。お互い号泣だった。

1年前に供えた父の遺品のユニフォームは野にさらされ、良い具合にくたくたになっていた。

人の境遇はそれぞれだ。究極を言えば、誰かと全く同じ感情を共有し、心の底から分かち合うことはできないと思う。

でも、たとえ全てが分からないとしても、大事な心の一部分を共有し、悲しみの巨石を一緒に担ぐことができるのだと思った。そのうちに石はどんどん角がとれ、丸く小さくなっていく。

私の場合は小石だけれど、心の中に転がっている石の存在を知ってもらうだけでも救われる気がした。

大事なものを無理して捨てなくてもいいよ。でも、抱え込んで苦しくならなくていいんだよ。自分を肯定できないときには、他人の力が必要になるんだと思った。小さい石でも角が丸いとは限らない。そのまま転がり続ければ、心の内は傷ついて内部出血する。それは危ないことだと自覚させられた。

◇ ◇
月に吠えるというタイトルをつけた一連の文章。私は最初から、締めくくりとなる「下」を書くのは一番時間がかかるだろうなと予想していた。

きっと長い文章になるし、自分の心と向き合うのは時間を要すると分かっていたからだ。

誰が読んでくれるのか分からないし、分かってほしいと押しつけるつもりも一切なかった。でも、実際にnoteに書いて電子の海に漂わせてみたら、一部の人から反応が返ってきた。

「月に吠えたら、向こうの山から遠吠えが帰ってくる」
この曲のコンセプトである。

偶然にも出会えてよかった。
そして、この文章を読んでくれた見知らぬ貴方に出会えてよかった。

だから、ありがとう。またね。

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