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@さいたま芸術祭、 小田香監督 映像作品 「セノーテ」 ふと三畳紀の記憶がフラッシュバックする...かのような

ユカタンの泉の透明な水を最初に魚が横切ったとき、CGかと思った。ドキュメンタリーの表現は限りなく自由で、事実だけを映しているというわけではなくなっているから。真上から注ぐ太陽の光が強すぎて、現実感がない。真偽怪しい魚は、映画の中で何度も、大小、大量に表れて、それだけでメディテーション効果がある感じ。隕石がぶつかってできた穴に水がたまった、イニシエーションのための泉だというから、生き物はいないと思っていた。でも白いものが水中に浮いていて、微生物とかエビとか小魚もたくさんいて、お化け蛇もいるらしく、命のスープ、飛び込んで戻らなかった人のアミノ酸も転生している。魂はアミノ酸でできているんだったり。

だんだんぼんやりしてくる、寝ているのか、起きているのか、私はアメリカンマジックリアリズムのドツボにポトンと落とされ、わかるはずもないマヤの末裔の言葉が意識の奥深くに響く。

お前寝てんじゃないよ、実は全然映画なんて見ていなくて、夢見てただけかも。古い会場のかび臭い空気だけは現実感があるけど。


あろうことか同監督の「鉱 ARAGANE」を見逃していて、次作品である「セノーテ」がさいたま芸術祭で上映されると知って、芸術祭チケットを買った。そういうことに目利きの友達は「鉱」のほうが面白かったよと、どうせ見ていない私を挑発してくるのだが、片方だけはチャンスがやってきた。

さいたま芸術祭、ガイドが足りないみたいで、なにをどこでやるのか、が、感覚的に把握できない。前売りチケットの特典がもらえる受付がある本会場(旧大宮文化会館: 前の芸術祭でも意味深な展示があった地下室や意味不明な通路が迷路のようなモダン建築の古い建物)が上映会場だなんて、みんなわかっているのか?

今回のディレクションは「目」で、どこらへんが「目」なのかと思ったら、その旧大宮文化会館の建物が大変なことになっていた。目は既存の風景を根底から読み替えて変容させ、違和感体験に陥れるという感じの展示が多い。屋外の池がアクリルで固まっていたり、洗濯機が裏空間へのトンネルだったり、突如空に浮かぶ顔とか。恐る恐る変容した世界と対峙させられる。今回は、建物が下敷きみたいな透明な板で分断されまくる。同一の空間だった室内が分断されて、容易に行き来ができなくなっている。さらに、普段は表に出ない場所が、透明な仕切りで露わにされて、芸術祭の舞台裏が丸出しに。
分断って、今世界で理不尽に行われていることを連想させられる。すぐ目の前にあるまる見えな分断ガラスの向こう側にいくために、階段を下りて、外に出て、再び違う階段をあがって、違う入り口から入りなおさなくてはならない、みたいな。ぜんぜん合理的じゃない、親切心などない、だれか他人の事情で、強制的に歩かされる感じ。これは鋭い、社会的。

その分断ホールで、念願の「セノーテ」が始まった。ユカタン半島の泉の映画だから、水中のシーンが多い、水が動く音は眠気を誘う。イニシエーションなどの儀式で使う泉には、たくさんの人が来る、飛び込んだり、行方不明になった人もいたり、水中にトンネルがあり、別のセノーテとつながっている場合もあるらしい、そもそもが大昔に隕石があたってできた穴に水がたまったとか、川や池がない地域だから貴重な水源でもあるそうだ。そして人々の言葉が聞こえてくる、耳慣れない、マヤ族の末裔が話すマヤの言葉。水に入って出てこなかった人の話。生活についての話、何を言っているのか、字幕はあるけど、なんだかよくわからない。自分は水の中にいて、外の生活を水嵩越しにわんわんとした不明瞭な音で聞いているみたいな錯覚をおこす。あるいは、水中の洞窟に潜む、化け物みたいな大蛇になった気になる。泳いでいる人の足が見える、食ってやろうか、と思うような。

私はやっぱり眠っていたのかもしれない。マヤの言葉や音楽を聴きながら、水音に耳を澄ませているうち、起きて泉の映画を見ていたのか、それとも眠って青い水の夢をみていたのか、境目がわからない。もう一度見てもおなじかも、全編冴えた意識でこれを見ることは、一生かなわないのかも。

死んだ人が、泉で精霊か、蛇になって、生きている人の命を見守っているような、数億年前、水の中で生きていたころの、脳内の三畳紀の記憶がよみがえるような。

あなたが両生類的だったころの。