見出し画像

この世でもっとも美しく、残酷な本のこと(2)

マルグリット・オードゥー(Marguerite Audoux)というのがその本の作者の名前だと知ったのは、ほんの数日前のことだ。

それも、見つけてやろうと意気込んで近づいたのではなくて、あるとき、いつもの古本屋で、見るともなしに店内を巡っていたときに、私のもとへ飛びこんできたのだった。いつもの、というのは、駅からの帰り道にある古本屋で、なにも荷物を持っていないときにだけ寄る場所である。荷物がないときに限定的しているのは、いつも持ちきれないほど本を買ってしまうからで、そうなると、帰宅途中、両手が痺れるにしたがって、しみじみ悲しくなってくる。

オードゥーに話を戻そう。
1863年、フランス中部シェールのサンコアンに生まれたオードゥーは幼いころから本が好きで、屋根裏にあった一冊の古い歴史の本を読んだのをきっかけに、手当たり次第になんでも読み漁るようになったという。
16歳の時、フランス・ロマン主義の父シャトーブリアン(1768‐1848)の作品に出合う。本を持ってきたのは仲の良い男友達で、二人は藪のなかに「野兎のように巣籠って」熱心に『アタラ』と『ルネ』を読んだという。

1910年に発表した『孤児マリー』(原題 “Marie-Claire”)は、彼女が歩いてきた茨の道をふりかえり、記録した物語だ。3歳の時に母親を、そして父親を失ったオードゥーは孤児院で9年間を過ごし、13歳のときにソローニュの野に羊を守る牧女となった。

「不幸だったかとおっしゃいますの? それは不幸なぞいうなまやさしい言葉で言い現わせるようなものよりは、もっともっと悲惨なものでした。小娘というものは、御承知でしょうが、それはかよわくやさしいものなのです……。それがどうでしょう、考えても見て下さい、『寒いのかい、お前?意気地なし奴!寒かったらもっと働くんだ。そうしたら温まる!』そして二言目には、頭をポカポカ殴り飛ばされるんです」

そんなとき、家畜のところへ泣きに行ったとオードゥーは回想している。親を亡くし、孤独な子ども時代を過ごしたオードゥーにとって、家畜たちは良き理解者であり、善き友でもあった。
19歳でパリに居を移したオードゥーは、お針子として必死に働いたが、生活はとても苦しかった。彼女を悩ませたのが目の病で、とうとう針を持てなくなるほど病状は悪化してしまう。

「やむなくあたしは、自家で針仕事をすることに致しました。その時分から、抽斗の中にあたしの天国が隠されていました。あたしの天国、それはあたしがただ自分一人のために書いていた書きかけの本……」

当時オードゥーが住んでいたレオポール・ロベール街には、芸術家たちが集まっており、劇作家オクターヴ・ミルボーもその一人だった。ミルボーの最大級の讃辞を序文に出版された『孤児マリー』はかなり評判が良かったらしい。これを機に、それまで無名の一女性にすぎなかったオードゥーは、一躍有名になる。

堀口大學、新潮文庫、1953年

当時オードゥーが住んでいたレオポール・ロベール街には、芸術家たちが集まっており、劇作家オクターヴ・ミルボーもその一人だった。ミルボーの最大級の讃辞を序文に出版された『孤児マリー』はかなり評判が良かったらしい。これを機に、それまで無名の一女性にすぎなかったオードゥーは、一躍有名になる。

いろんな人が家を訪ねてくるようになったが、彼女自身は冷静だったようで、その後も粗末な屋根裏の小さな部屋でつつましい生活をつづけた。
1920年に『孤児マリー』の続編とみられる『マリーの仕事場』(原題 “L' Atelier de Marie-Claire”)を発表。25年に『街から水車場へ』(原題 “De la Ville au Moulin”)を、32年に『婚約者』(原題 “La Fiancée”)を刊行した。

堀口大學、新潮文庫、1956年

37年、住み慣れた屋根裏を離れて移り住んだ先で書き出したのが“Douce Lumière”。日本では『光ほのか』という題で翻訳されている。視力の弱っていく目を気遣いながら、ようやく書き上げたオードゥー最後の作品だ。

この物語は、73年に偕成社から『夢見る天使』と題を変えて発行された。私が、小学校の図書室で出合った本である。

(つづく)  


こちらは過去に『本と旅する 人生あの本この本<Tabistory Books*001>』に掲載した文章です。創刊号は本がテーマ。子ども時代の思い出の本について書いています。

エッセイの続きはこちらからも読めます。
小さな文集で、よりどりみどりの書き手が集まっています。よしなに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?