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この世でもっとも美しく、残酷な本のこと(3)

「自然は人が大人になるまでは子どもは子どもであることを望んでいるのだ。もしわれわれがこの順序を逆転させるなら、我々は風味のない早成の果実をえて、それはまもなく腐れてしまうだろう」

とフランスの啓蒙思想家ルソーは書いている。
ここで近代思潮全体に影響を及ぼしたその教育論に触れるつもりはないけれど、もしルソーの言うとおりなら、私は正しい時期に正しい本を手にとり、きちんとお別れをいうことができたのかもしれない。ただ、彼自身は、児童文学に必ずしも好意的ではなかったようだけれど。

造物主の手から出てくるときはすべてが善でも、人間の手に渡るとすべてが堕落すると考えたルソーには共感できるところがある。私たちは生まれながらの良心が(そんなものがあるとして)いかに頼りないか、人間の本能がいかに役に立たないものか知っている。本というのは、ある意味では確かに「子どもをもっとも不幸にする道具」であり、「幼年時代の呪い」となってつきまとうのだ。

この本を、私はもうずっと、長いあいだ探していたように思う。
日本を離れて、児童文学を離れていたあいだも、自分の記憶の深いところに、子ども時代の記憶と一緒に、その本はあり続けた。あれから二十数年がたち、ほんの数日前まで探しつづけていたのだから、懐かしさ、というのもひとつの呪いだなあ、と思う。

やさしくて清潔で健全で、ささやかなものがささやかなままに閉じこめられた児童文学の世界に、私はときどき憧れる。読みながら、どんなにたっぷりと愛を浴びて育っても心の底で感じていた、しんとした孤独や、ひやりとした不安のことを思いだす。だからかもしれない。子どもの話を読むとき、私はいつも、少し、怖い。

子どものために書かれた物語を読むとき、私たちはその悲しみから逃げることができない。髪色をからかわれたアンや、カンザスへの帰り路を探すドロシーや足が動かなくなったパレアナの、苦しみや孤独感から、目を背けることができない。読者にとって、かの主人公たちは、かつて内緒話を打ちあけた友人であり、悪戯の共犯者でもある。

そんなことを考えていると、彼女たちと目が合ったりして、その大きな瞳にはどんな大人が映っているのだろうと、どきりとする。そうして、どこからか「おまえの少女の時間は終わったのだ」と声が聞こえてくるのだ。その度に私はちょっと嫌な気持ちになる。

子どものための物語では、助言をしたり、手を貸してくれたりする人が現われるけれど(そういう役割は、たいてい老人に与えられている)、大人たちはいつも脇役だ。子どもの物語には、大人の居場所は用意されていない。大人こそ心弱く、大人こそ孤独で、大人こそ友達が必要なのに。

だから物語を書いたのだろう。大人にこそ物語が必要だと、オードゥーは知っていたから。

 (終)  
     


こちらは過去に『本と旅する 人生あの本この本<Tabistory Books*001>』に掲載した文章です。創刊号は本がテーマ。子ども時代の思い出の本について書いています。

エッセイの続きはこちらからも読めます。
小さな文集で、よりどりみどりの書き手が集まっています。よしなに。

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