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#279 成果・能力主義が人の潜在能力を抑制するという逆説性

 私たちの人生と「成績・評価」は密接な関係にあります。小学校1年生〜少なくとも退職するまで?、私たちは自分の様々な資質・能力を他者によって評価され続けます。私たちは他者によって評価されることを「当たり前」だと感じ、その価値観に自分を合わせようともがいているのかもしれない。

 しかし、その感覚が「当たり前」ではない時代が少し前に存在したという記事を見つけました。

 記事の中で政治学者の白井聡氏と哲学者・内田樹氏は、1990年代のバブル崩壊から続く「能力主義・成果主義」に警鐘を鳴らしつつ、昔の時代はそんなことはなかったと語っています。

内田氏は
「今の日本の学校教育では、査定や評価にリソースを費やし過ぎていると思います。僕の記憶する限り、90年代のバブル崩壊までは、評価とか査定とか格付けとかいうことが学校教育の中で話題になることはほとんどなかったです。
〜中略〜
ところが、90年代バブルがはじけてからこの自由な雰囲気が失われた。能力主義、成果主義、評価活動ということが言われ出した。勘違いしている人が多いんですけれど、「能力主義・成果主義」ということがうるさく言われるようになったのは、経済成長が止まってからなんです。誰も能力や成果を査定なんかしなかった。だって、評価や査定なんかいくらやってもイノベーションは起きないし、売り上げが増えることもないんですから。でも、経済成長が止まってパイが縮み出したら「パイの取り分」について厳密な基準が必要だと言い出すやつが出てきた。
〜中略〜
もちろん、給料を下げても、働くモチベーションが下がり、能力のある人が逃げ出すだけで、何一つ価値あるものは生まれないわけですけれども、それが社会的公正の実現であるかのように思い込んで、いまだに懲りずに同じことを繰り返している人たちがいる。そうやって人の足を引っ張っているうちに日本はここまで衰えたわけですが。

 他者によって行われる「評価」は、本質的な意味での「人の興味・関心」を限定し、結果生産性が上がらない。それは今の学校の体質そのものだと言うことができるでしょう。

白井氏は

査定主義は結局、減点主義になるのですよね。だから、思い切ったことをやって失敗して大減点されるよりも、何もしない方がよいという判断になります。当然ですよね。

と語っています。学校が社会を作り、社会が学校を作る。そんなことを思います。


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