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性別を捨てた、あの選択

 20歳の秋。性別を捨てた。


 そもそも性別というのは、何によって決まるのだろう。
 生まれたときの体によるのだろうか。心によるのだろうか。
 これは非常に難しい問いだと思う。状況にもよるだろうし、個々人の考え方にもよるだろう。だからこそ、いくら自分自身の心は〇〇という性別なのだ! と主張したとて、理解しない人は少なくない。
 20歳の秋、性別を捨てるという選択をしてから、『他者からの理解』との戦いは頻発していたように思う。
 僕はXジェンダーであり、男でもなければ、女でもない。
 気づいたのは20歳の夏頃だった。昔から自分自身の生まれの性別に違和感を抱いていたわけではない。寧ろ違和感はなかったのかもしれない。生まれの性別らしくない内面と言われることは多々あったが、だからといってトランスジェンダーという自覚はなかったし、実際トランスジェンダーではない。ただ、なんとなく、性別を押し付けられることに対して、反発のようなものは持っていた。もしかしたらそれが、違和感だったのかもしれない。それでも、周りからの押し付けや、自分自身の思い込み、他者からの視線への恐怖等々、変化を踏みとどまらせるものが多く、変わることはなかった。
 しかしあの夏、僕の人生は一気に変わっていく。きっかけは本当に些細なものだ。とあるSNS配信者を見ただけ。それを見て、頭を思い切り殴られたような、目の前の霧が一気に晴れるような、不思議な気分になった。
 生まれの性別は女性という方が、男性と見紛うような格好、髪型、雰囲気で、SNSの投稿を行なっていた。
 その時までの僕は、学校、部活、サークル、仕事など、自分が持つ社会的属性にある程度合わせた見た目を選ぶべきだと、無意識に考えていた。しかしながら、そのSNS配信者は、そんなものに縛られず、『本当に好きな自分』でいた。当たり前のことだが、『本当に好きな自分』に、誰でもなっていいのだと、やっと気づいた。
 そのことに気づいたとしても、立場や恐怖など、様々な理由からそうなれない人もいるのだと思う。だが当時の僕は、気づきを得た歓喜や興奮から、すぐに行動に移した。
 髪を切った。新しい服を買った。ああ、これだと思った。本当の自分はこんなところにいたと、思った。
 女ではない。男でもない。自分は自分なのだと、やっと知った。
 周りの人々は、僕の変化に当たり前だが驚いていた。それでもありのままを認めて、素敵だと言ってくれる人がいた。その方が君らしいと言ってもらえることもあった。
 でも、いきなりの変化に戸惑い、心ない言葉をぶつけてくる人もいた。勘違いじゃないかと一蹴する人もいた。
 人々から向けられる奇異の目も、無理やりの気遣いも、否定も、辛くなかったと言えば嘘になる。本当にこれでいいのだろうかと何度も何度も考えた。
 それでも、何より楽しかった。今まで楽しめなかったファッションも、髪型も、何もかも。世界はすごく輝いて見えた。
 Xジェンダー。まだまだ理解を得られないことも多い性別を持って生きる以上、痛みはつきものだ。それでも僕は20歳の秋の選択を後悔したことは一度もない。
 本当の自分になるという選択は、苦しみより恐怖より、大きな、大きな、喜びを運んでくれたのだ。


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