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「サウンド オブ メタル」はマイノリティ擬似体験映画

直訳で「金属音」ですよ。メインストリーム・ブロックバスター系映画では絶対に採用されなさそうな地味なタイトル。おまけに日本版は『聞こえるということ』という、各地で「ダサい」と絶不評のサブタイ付きです。それでもなんとかアマゾン配信&各賞ノミネーションに漕ぎ着けました。

映画レビュー

そんな本作ですが本編はとても良かった。デフを扱った物語は数あれど、とかくそれらはノンデフ側視点からの「可哀想なデフ」に対するお涙頂戴ストーリーになりがちです。そりゃ多くの人はデフになった事が無い訳だし、共感よりは同情を誘う形になってしまうのも仕方ない。しかしこの「サウンドオブメタル」は視聴者の共感を得る事に成功している稀有な作品でした。

派手さは無いシンプルな映像と構成、しかしその分脚本演出やディテールは緻密で味わい深い。自然でリアルなキャラ設定と演技で、テーマの核となる「音」や「音楽」をメタファーに使いながら心象を描いていきます。没入感の高いマイノリティ体験型演出というのも新鮮で、自ずと「自分だったらどうするだろう?」と思わされる作りになっているのは見事です。不条理と孤独が炸裂する状況下で、しかしどこか静かなポジティブさも感じられる良作。映画スペックとかあらすじとかは他所のレビューに丸投げするとして、とりあえず一見の価値ありの映画としてオススメしておきます。

それでもポリコレ支持

ポリコレ大躍進の昨今の映画賞レース。選考メンバーが大改編された結果、人種や文化、宗教、格差、あらゆるマイノリティや弱者に焦点をあてた作品群が生み出され、評価されています。これについて「もうポリコレばっかでウンザリ」という声も聞こえてきます。まあその気持ちもわからんでは無いですが、しかし個人的にはやはりこの潮流を歓迎せざるを得ません。だって面白いんだもん。自分の傍にもある全然知らなかった世界、見たことないものを見られるから。そしてそれは自分自身を客観や俯瞰で多角的に見直す鏡になるから。既視感しかない予定調和の王道映画こそ正直ウンザリです。多様性万歳。

だってポリコレ以前は「マイノリティ側が社会水準に合わせるべし」「さもなくば表に出てくるな」というスタンスだった訳ですよ。冷静に考えると無茶苦茶な話ですが、「全のために個を犠牲にする」「それが社会全体の利益である」というのが当然の共通認識だった訳です。それどこの中国ディストピア?そんな調子でやってるから香港消滅しちゃったじゃん。そりゃ世界各国でなんちゃら運動とか続々起きますよ。挙句結果的にはむしろ逆に社会不安が増すという。

じゃあどんな共通認識ならイケてるのか。社会を構成するのは個人の集合であり、つまりは多種多様なコミュニティ群の集合です。それらを選り分けて切り捨てるのは、社会全体にとっての大きな損失である、というのがポリコレの根本概念です。多様な個性を一基準に括り上げるのではなく、社会側がその構成員を余す事なく活用できる順応性や包容力を持った方が色々オトク、というのが新しい「当然の共通認識」になりつつある訳です。損失を利益に変える、なんの事はない、ただの合理化です。「ポリコレこわい」って発想になっちゃう人は、変化を恐れて過去と既得権益にしがみついてるだけです。

「普通」という幻想

「個人的葛藤」と「社会的葛藤」は誰もが抱えている問題ですが、マイノリティの場合はそれは死活問題になります。まず自己肯定に多大な労力を要し、それをどうにか乗り越えても、次には社会的肯定という絶望的に巨大な壁にぶち当たります。

本作でもデフコミュニティが登場し、「デフは直すべきハンディキャップなどでは無い」と言っています。一個人として問題なく社会貢献でき、幸せに生涯をまっとうできる能力があるにも関わらず、マイノリティであるが故に社会から弾かれてしまう、毎度いつものパターン。それにより当人も「普通でありたい」という幻想に振り回されて、更なる苦悩や悲劇が生まれてしまいます。人が複数集まればマイノリティの中にも更なるマイノリティが生まれていく訳です。

例えばX-MENでは「ミュータント・キュア」というものが登場し、「ミュータントを治して<普通>になりたい」派と「ミュータントは治すべきハンデなどでは無い」派に別れて戦う件があります。デフやら肌の色やら性指向やら、治して「普通」になれるのならなりたいという理想がある一方で、治せないものである以上、それを受け入れてプライドを持って生きる。自分を否定するか肯定するか。諦めるか抗うか。永遠の葛藤ですが、しかし所詮自己否定の先に幸福なんて無い訳ですよ。この映画のデフコミュニティ長も、主人公の取った選択に対して苦渋の選択を迫られていました。両サイドの気持ちが痛い程解るだけに尚更辛い。

この世界に同じ人などおらず、故に思考や思想も人の数だけあります。普通など無い。強いて言うなら「全ての人がそれぞれ全て特別である」という事実、それを受け入れれば、逆説的に「つまり特別な人などいない」とも言え、それこそが「普通」であると言えるかもしれません。社会圧が要求してくる「平均値としての普通」など幻想に過ぎません。基準の置き場所によって平均値は豹変してしまうからです。その中で微小な差異について争うとか不毛です。差異を受け入れた上でWinwinの落とし所を探すのがオトナの知性というものです。

変化を受け入れて、前に進む

人の思いをよそに、物事は起こってしまいます。そしてそれに伴う変化が起きます。中でも喪失による変化はキツい。元に戻そうとしたり、変化に抗おうと苦闘します。やがて失われたものは戻らないことを理解した時、今度はその事実を受け入れ乗り越える戦いが始まります。

人は一人で生きられないから、コミュニティが必要です。最初のコミュニティは家族。そして友人や同僚。自分自身や環境の変化に伴い、属すべきコミュニティも変化していきます。どんなマイノリティであっても、今の自分を受け入れてくれる新たなコミュニティが必ずあるのです。

かつて自分を救ってくれたもの。かつて確かにあった素晴らしいもの達にありがとうとさよならを告げて、そこからまた歩き始める。前を向いて、進む。

それはともすれば震災やパンデミック、もしくは仕事や恋愛や人生そのもの、何にでも当てはめられる普遍性をもつ古典的寓話です。


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