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「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」と、ネットに初めて書き込んだ男はどのように生きたのか(後編)

この記事には自殺に関する内容が含まれます。心の弱い方、衰弱されている方の閲覧は十分にご注意いただき、閲覧の停止もご検討ください。

前編・中編リンク

中編までのあらすじ

「彼」は幼少時代から学生時代を冴えないまま過ごしていた。
そんな中、「自動アンケート作成」という現在の5ちゃんねるの走りの私書箱システムのひとつに、彼は笑いネタの一つとして「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」と書き込む。
その後、彼は学業の失敗で自殺未遂を経て、バイトで過ごす日々を送っていたが、どうにか正社員として就職し、社内で初めての彼女を作り結婚した。
新婚旅行まで無事に終えた彼は、これからもきっとうまくいくだろうと前向きな気持ちになっていた。

彼は新婚旅行の帰りに、これからの結婚生活はきっとうまくいくだろうとの予感を感じた。
それは、ウィーンのオペラ座で着物を着こなして、現地の立派な服を着た紳士淑女と流暢に会話を交わしていた彼女を見れば、そう思うのは当然であったかもしれない。

しかし、彼のこのような前向きで明るい予感は当たらないのが常だが、彼の不吉の予感は必ず当たるどころか、彼の貧しい想像力を超えたさらに酷い不幸が襲い掛かるのであった。
事実、彼は彼女と付き合う直前まで、職場恋愛は不吉なリスクと考えて避けようとしていた。
その彼の悪い予感は的中したばかりか、より凄惨な形となって実際に彼に襲いかかった。

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彼女の精神的な不安定さが露呈したのは、彼と彼女が付き合い始めてまもなくであった。
会社での研修の終わりが近づき、二人はそれぞれ実業務へ配属される間際の時期だった。
彼女はリストカットをした。
研修が厳しかったせいで、会社の業務をこなせるかの不安に襲われての行為だった。
彼女は彼の過去の自殺未遂をすでに知っていたので、このような行為にも寛容だろうという計算もあったのかもしれない。
このような事件はあったが、その後しばらくは、彼も彼女も安定していたようだ。

彼らが入社して付き合ってから3年目の夏、彼と彼女は会社の会議室で打合せをしていたが、彼女はトイレに行くためか会議室の席を立つとドアに向かうが、ドアの手前で転んだように倒れてしまい、そのまま立ち上がれずに泣き出してしまった。
彼はその際に相当取り乱したようだが、会社内で二人の関係は公にはしておらず、表面上は同僚の体調不良に動揺したという態でやり過ごした。

そのまま、彼女は体調不良で帰宅、近所の心療内科でうつ病の診断を受け、三カ月の休職を取って闘病生活に入った。
休職直後は彼女は食事が全く喉を通らずひどく瘦せ細ったが、休職も三カ月目に入ると大分回復し、休職期間終了後は復職できる見込みも立っていた。
その一方で、彼の方が彼女のうつ病の看病と、彼女と同じように仕事をこなしていた疲労も回復できずに衰弱していた。
また、彼女の病気の回復とは反比例して二人の関係は悪化してしまい、彼の方がうつ病になりかけていた。
彼女は無事に三カ月の休職の後に復職を果たしたが、彼の方が体調が芳しくなくなった。それでも、彼は年末年始の休みと有休を使って、どうにか休職までの事態には至らずに通常通り出勤できるまでには体調を回復できた。
その後、二人の関係も修復はしたが、この時期の不仲が互いの心情にしこりを残し、これも二人の結末に影響を与えたようであった。
また、彼はこのときに受けたダメージを完全な回復はできなかったらしく、記憶力や読解力の劣化、激しい視界の変化で気分が悪くなる症状はいまだに引きずっている。

そのような状態であったが、彼女のうつ病発症から一年、二人は結婚をした。

彼女の復職も当初はうまく行っており、しばらくは安定して出勤できていた。しかし、些細なきっかけで、また出勤ができなくなって休職というサイクルを繰り返すようになっていた。
それでも彼女の希望もあって、二人は結婚の翌年には結婚式を挙げ、新婚旅行にも出かけた。結婚式の直前まで、彼女の体調は良くなかったようだが、式も旅行もどうにか無事に済ませられた。

結婚式と新婚旅行の大きなイベントも終え、平穏な生活で彼女の体調も回復に向かうかと思われたが、むしろ彼女の症状はさらに悪化した。
二人は地元のクリニックだけではなく、当時うつ病で有名な医師の診察にも出向いたり、怪しいサプリメントにも手を出したりしたようだが、大した成果は得られなかった。

会社もそのような彼女の状態にしびれを切らし、ついに彼女の解雇を決めた。それを告げられたのは彼であったが、彼も逆らえなかった。
この解雇から、彼女の症状はさらに酷くなっていった。

彼女の解雇から1か月ほど過ぎた、彼が会社の仕事を残してしまい徹夜で残業をしていた日の朝近くの出来事であった。
彼の携帯に見知らぬ電話番号の電話がかかった。
電話を取ると、二人が住んでいる地元の警察であった。
話を聞くと、彼女が近所の高層マンションから飛び降りようとしているところを通報され、警察署に保護されたらしい。
彼は急いで警察署を訪れると、保護された彼女は警察官と机と向き合って話しているのが見えた。ひとまず、無事の様子で安心したが、彼女は彼に合わせる顔も無かったようで、彼に引き取られても謝れもしなかった。彼も彼女にどんな声をかけてよいかわからず、無言のままだった。

彼女が通院するクリニックに事の顛末を話すと、入院治療を勧められた。
渡されたパンフレットは、ステレオタイプな陰惨とした精神病院のイメージのない、きれいな建物に明るい病室の病院であった。

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二人が実際に精神病院へ行くと、簡単な診察を終えたのちに、病室に通された。
病室は重症患者が入る、閉鎖病棟であった。
自殺の危険がある患者はこのような扱いになるらしい。
部屋は壁が茶色で塗られていて暗く、窓は人の身長よりはるか高い位置に小さい窓があるだけ。
ベッドのマットは、これまでの患者が搔きむしって壊された跡が残っていた。
廊下からは、重症患者の悲鳴が度々聞こえた。

牢獄、という言葉がぴったりの場所だった。

妻は、ここに入るために、必死で勉強していたのか。
妻は、ここに入るために、夢を追って生きてきたのか。
妻は、ここに入るために、東京に出てきたのか。
妻は、ここに入るために、仕事を頑張ってきたのか。
妻は、ここに入るために、病気と闘ってきたのか。
妻は、ここに入るために、私と一緒になったのか。

彼女は観念したようでおとなしくしていたが、彼は慟哭を抑えるので精いっぱいだった。
入院の手続きを終え、彼は彼女を病院において帰るしかなかった。

彼はここにきてようやく、自分の両親と彼女の両親に、彼女の病状を打ち明けた。
彼女がうつ病に関しては、特に自分の両親には隠していたいと彼に告げていて、彼もそれに協力をしていたが、このようになっては彼は彼女を裏切るしかなかった。
彼が彼女の病状を伝えるために彼女の実家に訪問したが、彼が彼女の実家を訪問するのは婚約のあいさつと両家のあいさつの次で三回目であった。
本来であれば一通りの式も終え、幸せな新生活を報告するべきタイミングであるのに、このような最悪の告白をしなければならない自分が、彼には情けなくて仕方なかった。

彼が一人で青森までやって来てこのような告白をするのを、彼女の両親は、思いのほか冷静に受け止めてくれた。
彼女の退院のめどが立って落ち着いたら、必ず実家に彼女を送り届ける約束をして、彼は青森から日帰りで一人だけの部屋に帰った。

彼女の入院後の様子は入院時の心配に反して安静であったようで、入院から二週間で、同じ閉鎖病棟ではあるが他の入院患者もいる大部屋に移された。
大部屋でも院外には出れないが、他の患者とも会話ができるし、レクリエーションもあり、だいぶ自由の利く生活ができるようであった。

彼は毎週末とできる限りの平日に加えて、その年の夏休みをすべて使って彼女のお見舞いに病院へ足を運んだ。
大部屋に移ってから彼女はそれなりに回復をしたようで、院内で仲良くなった患者の話を彼に話した。
ある患者は、父親を自殺で亡くし、茫然自失の生活を続けていたところ、ある日、何の知識も無かった精神病院に入るべきだと、ひらめきのようなものを感じて入院したんだと話してくれた。
彼女は、もしかしたら死後の世界とか霊とかもあるのかもしれない、と彼に話した。

一度、彼は入院中の彼女を連れだして、ドライブに出かけた。
当初は彼女は乗り気ではなかった様子であったが、久しぶりの院外の空気を吸って、多少は元気になったように彼には見えた。
最後に病室で別れたとき、カーテンの中で彼女から彼に抱き着いてきた。
彼は彼女がいとおしいと思えた。

そのように、彼女は入院後快方に向かっているかと思われたが、ある日、彼女から彼に電話があった。
電話の彼女は泣き声で、もう退院したい、と彼に訴えた。
彼はあまりの鬼気迫る様子に何があったのかも聞けず、ただ彼女の話を聞いていた。
この病院は本人の意思では退院できないが、家族が望めばいつでも退院できるはずである。
彼は彼女の尋常ではない様子を察して病院に電話をかけると、彼女が病院内で自殺未遂を起こしてしまい、また個室に戻されたと聞かされた。

彼が病院を訪れたのは、彼女の電話があった翌日であった。
個室病棟にいる彼女は、先日ドライブに連れ出した時より、明らかに衰弱していた。
話を聞くと、最初は仲良くやっていた病室の患者たちが、次第に彼女に依存するようになり、彼女はそれを耐えられなくなってしまったらしい。
ずっと優等生だった彼女は、極々一部の心を許した相手以外には、何でもできて頼れる優等生としてしか人と向き合えなかった。どうしても、それしかできないのだ。
本来、心の回復をする病院ですら、彼女を傷つける場所になっていた。
彼はそれを察すると、彼女に「帰ろう」とだけ言った。
彼女はただ黙っていた。
その日のうちに、彼は退院手続きをすると彼女を退院させて、二人で部屋に帰った。

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いつも支えてくれてありがとう。

心配ばかりかけてごめんね。

でも、頑張って元気になるから。

これからもよろしくお願いします。

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彼はこの彼女からの手紙を開くことができなかった。
彼は彼女を信用しきれなくなっていて、手紙の内容が離婚の申し出や、恨み言であるかもしれないと思い、怖くて開けなくなっていた。
もし、この手紙を彼が受け取ってすぐに開くことができれば、こうはならなかっただろう。

彼女と二人で暮らしていたある夏の日の週末、彼は午前中に彼女が入院していた病院へ薬を処方してもらいに電車で出かけ、帰りに昼に食べるパンを買って帰ってきた。
彼が返ってくると彼女は思い詰めていた様子で、ほとんど喋らず黙ってパンを食べた。
彼は午前から出かけたのと平日の仕事の疲れもあって、寝室に入って昼寝をしようとした。
彼が寝室でベッドで横になろうとすると、彼女が寝室に入って来てドアのところで座り込み、涙声で「もう、離婚しようよ」と言った。

離婚。

彼には、もう彼女を支える力がないのは、十分にわかっていた。
それでも、魔法の様に彼女が回復し、また昔の様に楽しく暮らせる日が来るのでは、と淡い期待も持っていた。
彼女には話していないが、すでに彼女を実家に帰す話はつけてある。
であるから、離婚して彼女を実家に帰すのが、今の彼女にとっては一番マシなのだろう。
しかし、本当にこれで終わりなのか。
また、楽しい日々を二人で暮らせるようには、どうしてもならないのか。
そもそも、離婚して彼女はどうするのか。さしあたりは実家に帰すとしても、彼女の両親に今の彼女を支えられるのか。自分も会社を辞めて青森に移り住むのか。いや、それでは離婚にならない。
そもそも、絶対に両親にはうつ病を知られたくなかった彼女が、今の精神状態で実家に帰るのを了承するわけがない。
彼女の親友か元カレに頼み込んで、彼女の世話をしてもらうか。いや、いくら仲が良くても、今の彼女を引き受けてくれる人なんていないだろうし、彼女だって嫌がるだろう。
頭の中を様々な事柄を駆け巡るが、まったく結論どころか、この危機を乗り越えるまともな策のひとつもでない。
離婚を迫る彼女に、何て声をかければよいのかすらわからない。
彼は「外で考えてくる」と、彼女を置いて外に飛び出してしまった。
彼は家をでると小雨が降っているのに気づいたが、構わず駅前まで出るとファーストフード店でコーヒーを飲んで座って時間が過ぎるままに任せた。
時間が過ぎても何の良案も出なかったが、しばらく時間をおいて冷静に会話ができるように、気持ちだけでも落ち着けてから部屋に戻った。

戻った部屋には鍵がかけられていた。
カードキーで開錠をしても、チェーンがかけられていてドアは開けられなかった。
チャイムを鳴らすが、彼女は出ない。
携帯電話で電話をかけるが、これも出ない。
機嫌を損ねて無視しているのだろうと、何度かチャイムを鳴らしては少し間を開けてを繰り返したが部屋に動きがあるように見えない。
チェーンで開かないドアの隙間から部屋の様子を見ると、リビングに入るドアのすりガラスに動かない人影が見えた。
彼は何か恐ろしい予感がしたし、そもそも今のままではどうにもならないので、救急車を呼んだ。
救急が来ると、隊員の人たちは巨大な工具を持ち出してチェーンを断ち切って部屋に入った。







彼女はリビングのドアを使って首を吊っていた。
八月なのに、冷たい雨が降る、ひどく寒い日だった。

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ごめんね。自分を責めないで下さい。

素敵な人が見つかったら、今度は幸せになってください。

愛してます

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彼は彼女が亡くなった翌日、彼女が飲んでいる薬の一食分を飲んだ。
その薬の効きはあまりに強く、二日間ほど彼は意識が朦朧としたままだった。
ここまで強い薬を飲み続けながら、なぜ彼女は自ら死のうとまでしたのか。
彼は実際に自殺を図る時に必要な精神的な労力を知っていた。
この薬を飲み続けていて自殺を図るには、余程の意思がなければできなかっただろう。
何が彼女をそこまで追い詰めていたのか。
彼にはわからなかった。
一方でここまで強い薬を飲み続けていたら、回復しても相当な後遺症が残るだろうと思われた。彼女はそれを悲観したのではないかとも彼には思われた。

彼女の遺体は青森県の彼女の実家まで運ばれ、通夜葬儀は全て彼女の実家で執り行われた。
火葬場で彼女の遺体が焼かれている間、他の参列者は控室で待っていたが、彼は炉の前から動けず、ずっと突っ伏して手を合わせ続けていた。

彼女の葬儀の前の立ち話では、彼女の実父はこんな話をしていた。
彼女が小学生のころ、運動会の徒競走で彼女が一位になれず、口惜しくて泣きながら彼女の実父にどうすれば一位になれるのか聞いたら、彼女の実父は「歯を食いしばって顔をしかめて手を精一杯振って、がむしゃらに走れ」と言ったらしい。
それを聞いていた彼の母は、彼女について、「じゃあ、〇〇さん(彼女の名前)は、そういう風に精一杯生きたのね」と言った。
彼は母の言うことについて、これまであまり素直に聞き入れられなかったが、その時ばかりは母の言うことを素直に聞き入れられた。

彼女の遺体が彼女の実家に送り届けられてから、葬儀が終わるまで日本中が記録的な豪雨に晒されていた。
その豪雨も8月の終わりともに去り、青森でもきれいな青空が見えた。
彼女の実父はやっと雨が止んだ空を見て「〇〇(彼女の名前)がずっと泣いていたのかな」とつぶやいた。

彼は青森から戻ると、実家に身を寄せながら、二人で暮らした部屋の始末をした。
それに加えて、彼女が会社や友人に残した遺書を渡して回る仕事もあった。
遺書にはすべての宛先について、謝罪と感謝の言葉だけが記されていたが、彼女の両親の遺書には、それらに加えて自分の遺骨は海に散骨してほしいと書かれていた。
しかし、彼女の遺骨は彼女の実家と彼の実家の墓に納められた。

彼は遺書をそれぞれの宛先に渡すして回るのに、彼女の友人の誰かからは酷く責められ糾弾されるのだろうと思っていた。昔の彼ならそれを恐れて何もできなくなるところであったが、その時の彼は、そのようにされたら自分も彼女の後を追おうとしか考えていなかった。
むしろ、彼は誰かに酷く責められて、絞首台まで連れて行ってほしかった。しかし、彼を責め立てるような者はおらず、むしろ皆、彼を同情的に迎え入れたようだった。
それが、彼には不思議でもあったし、腑に落ちない思いもあった。
彼女は死んでも仕方なかったのか。
もっと、そばに居る人間に何かできたのではないか。
彼女の親友たちは誰もそうは思わなかったのか。
それとも、自分があまりにも哀れでみすぼらしくて、皆、彼を糾弾する気すら削がれてしまっただけなのかもしれないと思われた。

結局、彼女が残した遺書の宛先に遺書を見せて回ったが、遺書を受け取ってくれたのは彼女の両親と彼女の最も親しかった友人の一人だけであった。
あとは彼が遺書を持ち帰らなければならなかった。

彼は部屋の整理をして、今後の生活に不要なものは一通り処分をした。
本棚を整理ていていたら、吉永嘉明著の「自殺されちゃった僕」という本を見つけた。
これは彼が買った本であった。購入したのは、ねこぢるや青山正明といった彼が気になっていた自殺した著名人の記述があり、彼らに興味があって購入したものだった。
この本は三章に分かれていて、第一章はねこぢる、第二章は青山正明について書かれていたが、第三章はこの本の筆者である吉永嘉明の亡妻について書かれていた。吉永嘉明の妻も自殺で亡くしていて、第三章には著者の亡妻に対する切実でやりきれない思いが綴られていた。
自殺した人間を美化する、危険な内容でもあった。
彼は第三章については、著者の亡妻には特に興味はなかったし、肉親を亡くした遺族の文章は読むに堪えず、一度通して読んだ程度で二度と開かなかった。
しかし、彼女が亡くなって本の整理をして見つけたこの本は、本の小口を見ると第三章の部分だけが指の手垢の跡で真っ黒になっていた。

これらの整理が終わると、彼は彼女の実家から分骨した彼女の遺骨の一部を手元の小さな容器に移し替え、詰めの垢ほどの小さなかけらずつを、彼女が過ごした大学のキャンパスや、初めて旅行に行った場所、一緒に暮らした場所、さらに新婚旅行で行ったウィーンの街が一望できる丘にも埋めた。
これにどのような意味があったかは彼自身もわからないし、それで彼女の慰霊になるとも思えなかったが、それでもそうしなければと彼には思えた。
最後に手元に残ったひとかけらは、彼女の三周忌に富士山の剣が峰まで登って埋めた。
彼女はさまざまな夢を描いて学生生活を送り東京へ出てきた。
しかし、何の夢もかなえられずにこの世を去った。
彼はせめて日本のいちばん高いところに彼女を置いてやりたいと思った。

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彼女の死後から数カ月が経って、世間はリーマンショックで大騒ぎになっていた。
彼は32歳になっていた。

彼女の死後、彼は諸々の片づけをこなしたが、彼の心に安寧が訪れなかった。

彼が自殺未遂をする直前に思い出された、死後の世界を描いた映画の自殺者がたどり着く地獄のシーンが、彼女の自殺で改めて思い出された。
彼は実際に彼女に自殺をされてみて、この映画の地獄のシーンを思い出してしまい、彼女が死後の世界で酷い仕打ちを受けているのではないかと、ずっと苦しんだ。

妻が死んだのは、妻の意思ではあっても妻の勝手ではない、私のせいなのです。
地獄の責め苦を受けるのは妻ではなくて私なのです。

と、神様か閻魔大王がいるのなら訴えて、身代わりになって彼女を救いたいとも願ったが、それもかなわず生きるしかなかった。

彼は彼女の死の直後に会社を辞めた。
しばらく、彼は実家に身を寄せる無職の身であったが、いつまでもダラダラしているなと、両親から責められるようになった。
それで、彼は就職活動を始めるのだが、丁度リーマンショックで世間は不景気に沈み込んでいて、彼の就職活動は困難を極めた。
それで、どうにか再就職先が決まって新たな職場で働き始めた。
彼女の死後、半年が経っていた。

再就職先での仕事は、彼にとってそこまでキツいものではなかったようだが、彼は以前の職場と今の職場の、社員の質の違いに愕然とした。
彼女が病んでいった理由の一つは職場の仕事についていけない不安であったが、今の職場の社員は、誰も亡くなった彼女より明らかに能力が低ように見え、彼は自分の会社の社員たちに「妻は亡くなったのに、なぜ彼らはノウノウと生きているのだ」と理不尽な他人への恨みを、しばらくの間募らせていた。

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彼女の死後から数年たって、一般には不思議でも何でもないのだが、彼にとって彼女を思い出させる不思議な映画を二本見た。

一本はあるアニメ映画であった。その主人公の妻は彼女の名前と漢字こそ違うが、同じ読みの名前であった。映画内で妻が亡くなり主人公は生き残った。最後のシーンで、黄泉の国か死後の世界かわからないが、主人公の妻が主人公の前に現れ「生きて」と何度も語って、そして消えていった。彼はそれが、自分に言われているようにも思えた。

もう一本は、やはり彼女と同じ名前の女性が主人公で、彼女ははるか昔に亡くなってる恋人の幻と恋愛を続けていた。舞台は小さな漁村で、彼女はその村で一番の常識人のように振舞っていたが、実は過去の恋人に執着する彼女を村の皆から心配されている立場であったと結末をむかえる映画であった。
もし彼女が生き残って彼が亡くなっていたら、彼女は彼をこんな風に死後も愛してくれただろうか、いや、それはないだろうなと彼は思った。

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彼の周りで亡くなったのは、彼の妻だけではなかった。
大学院を辞め、リゾート地でバイトをしていた時に同室で同僚でもあったE氏は、海から身を投げた。
大学時代に、彼のネットでの書き込みを唯一喜んで評価してくれた友人がいた。その友人と彼は二人で泊まりでスキーに出かけたこともあった。その彼も、ニートで酒浸りの生活を送って夭折した。

彼らの周りの、彼と親しかった人間は、皆、早々にこの世を去っていた。
亡くなった人たちは、みな彼の理解者であったし、彼も親しみを感じていた。しかし、皆この世を去った。
彼だけが残された。
他の皆は許されて、彼だけが許されていないように、彼には思えた。

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彼の妻の死後、彼は転職をしてどうにか仕事をこなしていた。

転職後の会社には平社員で入社したが、2011年の東日本大震災があった直後に、彼は課長に昇進した。
中途入社から三年での課長昇進は、その社内でも優秀であったが、彼の評価が高かったのはそれまでであった。
彼は彼なりの価値観で仕事の成果を積み上げていたつもりであったが、それは彼の独りよがりのものでしかなかったようだった。
社内の管理職の出世レース次々と抜かれていき、数年も経つと、彼は課長の中でもいつまでも昇進できない、落ちこぼれの部類に入っていた。

自分の仕事が評価されないのもあったが、部下たちが次々とうつ病で休職、退職するようになってしまったのが、彼には最もつらかった。
うつ病の辛さは、社内では他の誰よりもわかっているつもりでいた。
せめて自分の周りの、自分についてきてくれる部下だけには、そのような思いはさせたくないと思っていた。
しかし、現実は全く逆の方向に進んだ。
彼は仕事で成果を出そうと、難易度の高い課題もどうにか切り抜ける。
すると、高い難易度の課題でも越えられるものだと思われて、さらに高い難易度の高い課題が彼に振ってくる。
彼一人で課題をこなすのであれば、彼一人が苦しむだけだが、彼の下にいる部下もそれに巻き込まれる。
自分に課せられた課題をこなせない者から、精神を病んでいく。
彼の仕事は負のサイクルに陥っていた。
会社が彼を含む管理職に望んでいるのは、彼のようなやり方ではなく、単純に売上の増大、利益の増大であった。
彼もそれを理解していたが、彼がこの会社に在籍している間にこのサイクルからは抜け出せなかった。

彼は敗北を認めて、転職を決意した。
振り返ると、学業、斉家、キャリア、全てにおいて彼は何も成しえず挫折し敗北していた。
これが全てにおいて彼自身の能力不足、怠惰が原因であれば納得もできただろうが、彼にとってはいずれもそのプロセスにおいては恥は無いつもりでいた。

大学と大学院の成績は良かった。
夫として妻にできる限りをしたつもりだった。
仕事も人並以上の成果は出していたはずだった。

しかし、それらは全て彼の独りよがりか、あるいは思い込みに過ぎなかった。
峻厳として彼に突き付けられた結果はすべてにおいて、彼は劣っていた、ダメだった、落第だったと彼に厳しい評価を与えていた。
おまけに、彼一人が貶められるならまだしも、何人もの他人を傷つけてさえいた。

ここまでやったのだから、仕方ない。

誰も恨めず、何も憎めず、狂うことすらできず、彼はただ自分の敗北と運命を受け入れるしかなかった。

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新型コロナが世間を騒がせた2020年。
まだ外出規制が厳しい初夏のある日に、彼はLINEで10年以上連絡を取っていないひとからの連絡を受けた。
そのひとの名前をこの記事ではW氏とする。
W氏は彼の妻の親友のなかで唯一、彼の妻の遺言を受け取ってくれたひとであった。

W氏は夏ごろに彼の妻のお墓参りをしたいと告げてきた。
ようやくお墓参りができるくらいに、心の整理ができたのだという。
彼の妻の死から十二年が経っていた。
また、彼にも会いたいとあった。

彼はW氏との三度ほど顔を合わせている。
一度目は、妻の生前にW氏の家に二人で訪問をした。
二度目は結婚式で、三度目は彼は妻の遺書を渡したときであった。

彼がW氏と会ったのは、連絡から一カ月ほど過ぎた7月の週末だった。
その日は朝から雨が降っていたが、二人が待ち合わせた時刻になると急に晴れて青空が広がっていた。
W氏の驚くほど12年前と変わらない姿に、彼は驚かされた。
彼は加齢とリモートワークですっかり太ってしまい、自分の姿をW氏に見られるのが恥ずかしかった。

彼は実家から借りた車にW氏を乗せ、彼の実家の墓へと向かった。
その墓には、彼の妻の実家から分骨した小さな壺に収められた遺骨が埋められている。
墓のある霊園までの道中、二人は彼の妻の思い出話をした。

その中でW氏は
「〇〇ちゃん(彼の妻の名前)は、旅行とか行くといつも率先して準備して完璧にやってくれました。今日はお線香とか忘れちゃって、〇〇ちゃんに怒られちゃう」
と、泣きそうなかすれた声で話した。
それを聞いて彼ははっとしたが、W氏と一緒の間はどうにか抑え込んでいた。

二人は墓参りを済ませ、近所の喫茶店で引き続き彼の妻の思い出話や、コロナの話、文学の話などもしたのち、待ち合わせ場所に戻って別れた。

W氏を見送ったあと、彼は先のW氏の言葉を思い出して茫然としてしまった。

彼が思い出される彼女は、いつもおどけていて彼に甘えて、他人には繊細すぎるくらいに気を使って、それでいて生真面目だけど脆くて、いつか見捨てられるのではと怯えていて、それなのにきちんと守っておかないと蝶々のようにどこかに飛んで行っては外敵や環境に傷つけられて帰ってくる、かなしいほど危うくて弱々しい姿であった。
およそ、現代の男女平等、自己責任、自由恋愛、職業選択の自由の世界を生き抜けるメンタルの強さは持っておらず、誰かに依存しなければ生きていけないのに、依存すると依存先に捨てられる恐怖におびえる哀しさを抱えていた。
しかし、その姿は彼の前でだけ見せていた彼女の姿だった。

W氏が語る彼女は、真面目で成績は優秀、全てを率先して取り仕切って、なんでもきっちりこなして、他人には厳しいけれどもそれ以上にやさしくて、自分には厳しい優等生そのものであった。
彼女はおそらく最も心を許していたであろう親友にすらも、そのようにしか振舞えなかったのだろうと、彼は気づかされた。

「わたしも、本当はグループ内でリーダーシップを取る人が恋愛対象だった。あなたは違う」

彼は彼女の言葉が思い出された。

本来、彼女は自分は優等生としてふるまって、隣にいる男性もみんなのリーダーで、そういう優位的な立場でしか他人と向き合えない。
それほど弱い人間であったが、一方で虚飾であっても強さを取り繕えるだけの能力も持ちあわせていた。
思い返してみれば、彼女が大学時代などの友人たちと接している姿を見るたびに、彼女が全く別の人格になってしまったような、自分の知っている彼女がこの世からいなくなってしまったような不安をいつも感じていた。

彼は彼女の生きる術を自分が奪ってしまったのだと気付かされた。
たしかに、愛する二人が他人には見せられない心の傷を共有し合って生きるのは、素敵なのかもしれない。
しかし、社会の中で生きていけなければ意味がない。
彼女はずっと優等生を装って、いや実際に成績は優秀だったのだから実際の優等生のままで生涯を送れれば、幸せだったのかもしれない。
それなのに、それでよかったのに、彼女は彼と出会って、自分の弱さを見せること、人に甘えることを覚えてしまい、生きる術を失った。
他人と向き合えなくなっていた。

彼は自分のしてしまった罪の大きさに改めて気付かされて、罪悪感に押し潰される思いがした。

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2023年の春、彼は少し大きめの病気をしたが、どうにかその病気は快復した。
彼は47歳になっていた。

快復の一人祝いとして一人で映画を見ようと洋画邦画を問わず映画をさがしていると、「30歳まで童貞だと魔法が使えるらしい」という題名の映画を見つけた。
そこで彼は過去に自分がネットで、「30歳まで童貞だと魔法が使えるらしい」と書き込んだのを思い出した。20年以上の間、彼は忘れたままだった。
彼は、自分が書いた戯れのようなネタの書き込みが、世間では多数の人間によって長年をかけて伝えられ、あたかも伝説の様に語り継がれている現実を知り奇妙な感覚を覚えた。
一方で、ネットの有象無象の書き込みを漁ると、どうやらこの「30歳まで童貞だと魔法が使える」という、どう考えても与太としか思えない法螺話でしかないのだが、こんなバカな話を一縷の望みとして信じてしまっている人たちもいるのを知った。
彼は悪意も邪心もなく、当時の匿名の人たち同志の刹那的で自虐的な笑いのためでしかなかった自分の書き込みが、奇妙な因果で多数の人たちに影響を与えてしまったのに、言い知れない恐怖と懺悔心を覚えた。

一方で、彼は彼女が生きた証を、苦しんだ証拠を、この世に残しておきたいという思いも彼にはあった。残すというより引っ掻き傷をつけておきたいと表現した方が正確だった。
しかし、彼にはこの世に残せる特別なものなど、何も持ち合わせていなかった。
「30歳まで童貞だと魔法が使えるらしい」を彼が書いたとしても、もはや誰がこのネタの発祥であるかなど、誰にとっても大した意味も価値もないものだろうから、名乗り出るようなこともしなかった。
誰にも告げず、バカをやった履歴のひとつとして、静かに墓までもっていくつもりでいた。

2023年11月の三連休、彼は気まぐれで新幹線とホテルを予約して一人旅に出かけた。
彼は新幹線や特急に乗ると、必ず窓際に座る。車窓から景色が流れるのを眺めるのが好きなのだ。
しかし、今回は窓際の席は取れず通路側の席に座った。しかも、今回は贅沢ではなく予約の都合でグリーン車であった。新幹線グリーン車のゆったりとした席で景色も見ずに座っていると、とりとめもない思いを巡らせた。

彼女は、彼と付き合うようになって心を病み始め、彼と結婚して自ら命を絶った。もし、彼が彼女と付き合っていなければ、美人で聡明だった彼女はすぐに他の男性をみつけ、いまでも幸せに暮らしていただろう。
彼女の死から15年間、彼は彼女に会いたいと、彼女に生きていてほしかったと、叶わぬ願いだけを祈り続けて生きてきた。
彼女に会った結果、彼にできるのは離婚手続きだけかもしれないけど、それでも構わなかった。

それが彼のかなえたい夢だった。
決してかなわない夢だった。

もし、彼が童貞のままだったならば、彼が彼女に出会わなければ、彼が彼女と出会っても男女の仲にならなければ、きっと彼女は今も生きていただろう。
もっと良い夫をみつけて、今も幸せに暮らしていただろう。
これは「魔法」なのではないのだろうか。

童貞が使える「魔法」
それは、ある
確かに、ある
孤独を守り、だれとも交わらなければ
「魔法」が使える
その「魔法」で
自分の知らない
どこかの誰かが幸せになる

どこかの誰か知らない人、あるいは心の距離が離れたままの誰か。
彼女らが幸せ満ち溢れた人生になれるところまでは保証できないが、人並みの幸福は享受して天寿を全うする。
それは、30歳まで、いや生涯伴侶を娶るのをあきらめて孤独に生きる男性が使っている「魔法」の故だったのかもしれない。

と、彼は気づいた。
少なくとも彼はこの「魔法」を使わなかったから、あるいは使えなくなったから、彼女は首を吊る羽目になったのだ。

30歳まで童貞のままでいると使える「魔法」は確かにあったと、彼は確信した。
噓から出た真、瓢箪から駒のような真実ではあった。
その魔法は決して本人に特別な能力を与えたり本人を幸せにするものではないが、どこかには必ずいる、誰とも知らないかもしれない赤の他人を幸せにする魔法だった。
誰が、そんな魔法を好き好んで得ようとするだろうか。
しかし、彼はその「魔法」をどうしても欲しかった。
しかし、時間を巻き戻せず、「魔法」を手に入れられなかった。

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彼は太宰治の「雪の夜の話」という短編の作中作として、以下のような小品の物語を、筆者に見せた。

「むかし、デンマークの或るお医者が、難破した若い水夫の死体を解剖して、その眼球を顕微鏡でもって調べその網膜に美しい一家団欒の光景が写されているのを見つけて、友人の小説家にそれを報告したところが、その小説家はたちどころにその不思議の現象に対して次のような解説を与えた。その若い水夫は難破して怒濤に巻き込まれ、岸にたたきつけられ、無我夢中でしがみついたところは、燈台の窓縁であった、やれうれしや、たすけを求めて叫ぼうとして、ふと窓の中をのぞくと、いましも燈台守の一家がつつましくも楽しい夕食をはじめようとしている、ああ、いけない、おれがいま「たすけてえ!」と凄い声を出して叫ぶとこの一家の団欒が滅茶苦茶になると思ったら、窓縁にしがみついた指先の力が抜けたとたんに、ざあっとまた大浪が来て、水夫のからだを沖に連れて行ってしまったのだ、たしかにそうだ、この水夫は世の中で一ばん優しくてそうして気高い人なのだ、という解釈を下し、お医者もそれに賛成して、二人でその水夫の死体をねんごろに葬ったというお話。」

太宰治「雪の夜の話」から抜粋

この気弱な水夫は、現代の、童貞を貫き通す男性の姿そのものではないか。と彼は言った。

水夫が戸惑い躊躇ったのは刹那の一瞬だが、童貞は物心ついて学校に通い他人との比較ができるようになり、どうやら自分は劣っている、自分には誰かを愛する資格はない、自分は人の親になる資格はないと、気づいたときから命が尽きるまで、このあわれな水夫と同じように躊躇い続け、「助けてえ!」とたったひとことの嘆願を叫ばずに、腹の中にとどめておく生き方。
誰にも愛されずに生きるという大浪に流される責め苦を、人生の最期まで受け続ける生き方。

この水夫は燈台の家族が入口をあけて燈台に招き入れさえすれば救われたかもしれないが、童貞を救うには一緒に手をつないで大浪に流されて、苦難を共にしてくれる人が必要なのだ。
しかし、安全な場所にいる人たちから見れば、彼らと同じ大浪に流されて苦難を受けるほどの価値などない。
むしろ、安全にな場所にいた人たちが、助けるつもりが自分が遭難してしまう可能性すらある。
だから、ささやかな他人の幸福を侵さないために、自分自身が多大な犠牲を黙って受ける選択する、不幸な境遇を甘受する、何も残さずにこの世を去っていく、という生き方が現代の童貞なのだ。

これは怠惰ゆえの欺瞞ではないはずだ。
弱者として、劣ったものとしてこの世に生を受けた者の、せめてもの世界への誠意と愛情表現。
生物における、環境に即した進化を進めるための、正常な現象。
人間がこしらえた正義や人権と、生物として自然から課せられた生存競争をすり合わせた妥協点。
これを、他人が蔑んで嘲笑するなんてできるのだろうか。
私はそのようになれなかった。ならないのが正しいと思っていた。
でも、今はなりたいと本心から願っている。

彼は、そのような話を筆者に告げた。
彼はこれからも後悔と懺悔を抱えて生きるのだという。

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以上が「彼」について、筆者が伝えられる内容の全てである。

まず筆者からは、彼の前妻のご冥福を改めてお祈りしたい。

彼と彼の前妻について、彼らの経緯には同情できるところもあるが、彼が結論として出した「童貞が使える魔法の正体」とやらについては、特別に新しいものでもなく世間的にありふれた反出生主義の言い換えに過ぎず、これは彼の卑屈で歪んだ精神の所以から出された結論であり、筆者としては賛成しかねると、ここに明言しておきたい。

筆者は、彼についての記事を執筆したが、彼の賛同者ではない。

彼の妻の自死について責任の所在が彼にあり、原因も彼によるところが大きいとしても、それは彼の能力不足、愛情不足、誠意不足によるものでしかなく、童貞を守ったから使える魔法云々とは全く関係のない問題である、というのが筆者の見解だ。
もとより、彼も亡くした前妻への恋慕をいつまでも引きずらずに、新しい伴侶を見つけて再出発を目指すのが、健全で健康な生き方であるはずだ。
どうしても、いつまでも過去を引きずって前に進めないのであれば、せめて世間を混乱させるような言論を発するのは慎むべきで、前に進めずウジウジしている人間など他者から見れば不快以外のなにものでもないのだから、誰にも見られないように息を潜めて地下深くに潜って暮らすのが、せめてもの道徳的な行為ではないだろうか。

それでも、彼についての記事を執筆するにいたったのは、第一に、「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」というネットミームの発祥が、世間的には謎とされたままであるのに対して、筆者だけがその謎の答えを知ってしまったのについて、その内容がどうであれ世間に隠し続けるのは不誠実と思われたからだ。
第二に、彼の思想が不健全、不健康で社会に害悪なものであるとしても、実際に30歳を超えても異性との縁が得られず童貞を捨てられなかった諸兄にとっては、精神面で苦しい生活を強いられているのであれば、彼の半生を知るのは、怠惰を助長させる懸念はあるにせよ、ある種の福音や癒しにもなり得るのでは、という筆者なりの考えがあった。
そして第三に、多くの健全に暮らす一般の善良な市民の方々にとってみれば、彼の半生は檻に入った珍獣の如き物珍しいものを眺める程度のものであって、多くの読者の方々にとってもこの記事は、他愛もない珍しい情報を紹介する多数の記事の一つに過ぎないのであろうと、筆者には思われたからだ。

(謝辞)
記事中に登場したW氏には、筆者の突然の不躾な依頼にもかかわらず、公開前に記事の内容をご確認いただいたうえで、率直なご感想をいただきありがとうございました。


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