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雑文(96)「或る神童」

「そう言えば」
 僕は、妻に言った。妻は、右向かい、モスグリーンのカウチソファに腰掛けて、長い髪を梳かしてちゃんと乾かさず、与謝野晶子よろしく、みだれ髪のままうつむいて、携帯ゲーム機端末の液晶画面に映る架空の森で暮らす架空の動物たちの暮らしを充実させるのに、必死だ。
「仕事でさ、群馬に帰ったんだけど、そこで、たまたま会ったんだよ。誰に会ったと思う?」
「妻夫木聡?」興味なさげに、架空の森に建てたお家の内装を考えるのに、妻の脳みその半分が、いや、九割近くが家具の配置決めに費やされ、僕の話は話半分、いや、話一割だ。
「違うよ」僕は、うつむいたままのみだれ髪の妻に、どうして妻夫木聡? と続けず、脱線、脱線って、僕は、脱線しかけた快速列車を本線に軌道を修正する。
「君は知らないと思うけど、僕の中では大切な、というか、興味深い人物なんだけど」
「吉岡里帆?」
 吉岡里帆? って、僕は、えせ関西人の、なんでやねん、という棒読みで、与謝野晶子然な妻を、蛇腹折りした紙ハリセンでそのみだれ髪頭頂を叩きそうに、いや、そんな怖いこと、空想するだけで実行に移せるほど僕は勇敢じゃない。
「で、でさ。会ったんだよ」話を戻そう。「そいつは昔、神童と呼ばれていたんだよ」
「今田美桜?」
 神童? 今田美桜が? たしかに若手女優の中じゃ凄い人気だけど、グラビア時代から僕は応援して来たけど、いまはその話じゃない。群馬に帰ったら偶然、神童に会った話だ。
「進藤?」
 進藤? いや、神童、いやいや、進藤か。
「そう。進藤だよ。高校の時に同じクラスでさ、テストの成績は常に学年トップで、運動もできたから女の子にモテモテの進藤くんだ。そんな進藤くんに僕はたまたま群馬で再会したって話だよ。進藤くんがさ、進藤くんって神童だから、学校では常に先生とかから、勿論同級生からも羨望の眼差しをさ、浴びてその存在を注目されていたわけだけどさ、将来は内閣総理大臣かって、実際進藤くんの将来の夢は、内閣総理大臣になる、って卒業文集の寄せ書きの次のページにしっかり書いていたんだけどさ」
 てか、そうか。僕は、僕の頭の中で点と点が繋がって、線になったのがわかった。
「美幸(みゆき)、おまえ年末ジャンボ外れたの、まだ根に持ってたのかよ。君の助言に従ってバラで買ったけど当たらなかった、それを根に持って、さっきから」
「で、神童の進藤くんと会った話」妻は、線路の分岐器を切替えて、僕の話を本線に戻した。僕の顔をまじまじ眺めて、で? で? って、オチはオチはって、えせ関西人然に妻は、僕を急かした。
「全国的に有名な大手コーヒーチェーン店だったんだけど」
「スタバね、で?」
 僕は舌打ちした。「そう、スタバで、チョコレートチャンクスコーンと、アメリカンワッフルを注目する、勿論コーヒーはドリップコーヒー」
「へー、進藤くんはセンスいいのね。私と話合いそう」アメリカンワッフルとブラックコーヒーを頂く口に妻はなっている。チョコレートチャンクスコーンは最後のお楽しみってわけか。
「彼なんだけど、いまフリーターなんだって。将来を有望視された神童が、あんな奴が内閣総理大臣してるのに、フリーターなんだよ」
「彼、何か言ってたの?」架空の動物たちの家造りに、菜園耕しに飽きた妻は、進藤くんの話題に夢中だ。会ったことがないのに。僕の話の中でしか進藤くんを知らないのに。妻は、進藤くんのいまの境遇を嘆くように、進藤くんを唯一無二の古くからの親友のように気にかけている。
「シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソン然り、諸葛亮孔明と劉備玄徳然り、例を挙げれば数知れないけど、進藤くんってきっと、いい人に巡り会えなかったんだよな。出会う人って大事なんだよ。長年会社で人事部にいるからよくわかるんだけど、人を見るとき僕は、その人がいままで、どれだけ人に恵まれていたか、面接のときに必ず質問するんだ。両親や兄弟は当たり前として、学校の友人とか、話してくれるなら恋人も、その人に影響を与えた人を教えてもらうんだ。芥川龍之介と夏目漱石然り、フランツ・カフカとマックス・ブロート然り、鳥山明と鳥嶋和彦然り、そうだろ?」
「月野うさぎと地場衛しか私知らないけど」
 架空上の、って僕は言いそうになったが、アーサー・コナン・ドイルが生み出した魅力的な登場人物もそうだから僕は、架空と実在の区別なんかしない。
「進藤くんは、いい人に出会って、進藤くんを成長してくれる、いい助言をくれる人に出会わなかったから、進藤くん成長できず、高校生の頃の神童引きずってさ、それで、自分の首しめてさ、苦しんでいても誰にも相談できず、自尊心だけ高くなって世の中から逃げてばっかで、絶賛フリーター中だってさ」
「助言してあげなかったの? そんなに気にしてるなら。それに長年人事で培った経験があるでしょ、あなたには」
「言えないよ」
「どうして?」
「だって」僕は、僕の頭の中に進藤くんをイメージした。神童だった進藤くんが成長できず落ちぶれてしまった、いまの姿を、凡人になった、いまの進藤さんを、思い描いてみた。「神童だから。誰の言うことも聞かないよ。手遅れ、手遅れなんだ。もう遅い、遅すぎるんだよ、進藤くんが変わるには遅すぎたんだよ。神童だった進藤くんは、神童だった進藤くんとして最後まで生きるしかないと、僕は思うんだ」
「残酷だね」妻は、僕の創った進藤くんに感情移入して泣きそうだ。進藤くんに実際に会ったことがないのに、僕の頭の中にいる進藤くんしか知らないのに、妻は、進藤くんのいま置かれた、けっこう悲惨な境遇に胸を痛める。
「残酷だよ。世の中は残酷」僕は、妻に言った。「進藤くんには悪いけど、人の短い一生なんて、出会った人で、良くも悪くも変わるから、進藤くんはいい人に出会えなかった、僕に言えるのはそれだけだよ。進藤くんにはとても悪いけど、僕にしてあげられることは何もない。彼はもう手遅れだから、手遅れだから」
 僕は、進藤くんを想って少しばかり感傷に浸ったが、僕は僕で、いつまでも立ち止まっているわけには、立ち止まっていたら、出会えるいい人にも出会えないからと、言葉より行動だと、昔誰かが言った、たぶんある分野の歴史に名を残す偉人が言った名言を思い出し、ググらずに僕はその金言を胸に刻んで、これからも生きていこうと思ったわけです。無論進藤くんに赤の他人である僕がどんな巧言を吐いても彼は一切学ばないだろう。だって彼は、進藤くんは、僕の知り得る中でいちばんの神童なんだから。

   おしまい

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