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酸っぱい仕事 - 競争より共存 -

海も山もない。高層ビルで縁取りされた空を見上げて言う。
「ここにはなんでも揃ってる」
学生時代の私は無敵だった。大阪から上京し、ひとりで生きることに抵抗がなく、なんの根拠もない自信に溢れていた。山手線の駅ごとに異なるメロディーに、環状線のメロディーを重ねながら、都会の音たちに恋をしていた。どこへでも行ける気がした。
でも、ハタチを過ぎたころからだろうか。慌ただしい社会の波に、自分がのまれるようになった。やるぞと決め、競争の渦に飛び込んだ元気が、もがく過程で少しずつ失われていく。だれかと比べたって仕方がないのに。
「あかん、溺れる」

いつも少し遠回りをしてしまう。
勉強、仕事、やりたいこと。大抵のことは、これと決めた目標から、だいぶんと遅れて成しとげてきた。でも、努力、根性、実力不足で諦めてしまうことも多い。そんなとき、「割に合わない」だの、「子育てで時間がない」だの、それらしい別のもののせいにして、言い訳をしてしまう私は、格好悪いキツネだ。

“背伸びをしても、木になる葡萄に手が届かなかったキツネは、「酸っぱいに決まっている」と自分に言い聞かせ、葡萄を諦めた。—— イソップ寓話”

社会には、とても器用に葡萄をとる人がいる。葡萄の味を確かめる努力を惜しまない人がいる。資格や経験など、もつ道具を最大限に使って葡萄を手に入れる人もいるし、コミュニケーション能力の高さで、だれかに葡萄を分けてもらう人もいる。もたもたしていると、すべての葡萄が食べられてしまいそうだ。

息苦しくなったときには、いつもとは違う電車に乗った。レールから外れることはできなくても、広い空、海や山を眺めに行くことはできる。
どんなに背伸びをしたってひとりでは届かない葡萄を、遅れてでも、なんとか手に入れてこられたのは、人運のよさのおかげだ。
「今度一緒にとりに行こうよ!」
相手は、たまたま同じ電車に乗った人かもしれないし、寝過ごして降りたホームで戻りの電車を待っている人かもしれない。いつも溺れるギリギリのところで、浮き輪をもった人に出会うのだ。なんでも揃っているはずの街で見つけることができなかった、大切な存在となる人に。

だれかと一緒にとる葡萄は美味しい。酸っぱくたって笑える。
私は、これからどこまで頑張ることができるだろう。私もだれかの浮き輪になれるだろうか。育休を終えたあと手にする葡萄が、笑顔とともにあれるように、今日も都会の音に揺られている。


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