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母がくれた時間 - 当たり前を贈る -  

透きとおるように穏やかな顔をして隣で眠る。その安心しきった表情を眺めれば、どんな苦労も吹き飛んでしまう。そっと頬にキスをし、床を軋ませないようつま先で歩いてパソコンへと向かう。
四半世紀以上歳下の2人にこんなにも入れ込むようになるとは、学生時代のわたしが知ったら驚くでしょう。子育てをする上で、諦めることはたくさんあります。体型、美容、健康、睡眠、仕事、お金、恋愛、人付き合い、自分の時間。それでも、この小さな生きものたちが可愛くて大切で、この手で守りたくて仕方がなくなってしまうのは本能的なものでしょうか。

中学生のころ、学校から帰宅するなり、女手一つで育ててくれた母に、
「一体今日なにして過ごしてたん?」
と、聞いたことがありました。その質問に、なんでご飯ができてないの?の意味を込めて。育ち盛りの空腹に怒りを任せ、母の苦労を慮ることができずに責めました。
母は、そんなわたしの質問の意図を汲みとりながらも、あんたのこと送り出して仕事してたら帰宅までに家事なんて出来るわけないやん!とか、自分でご飯くらい作りぃや!などと言う人ではありませんでした。
「たとえば4人家族やったとするやん?みんなが朝布団をちゃんと畳んで片付けるとか、パジャマを脱ぎ散らかさずに洗濯機にいれるとか、ご飯のあとに食器を洗うとか、自分たちで自分のことに15分の時間をかけてくれたら済むことを、お母さんは1時間かけて1人でやるんよ。だれかの時間をつくるために、自分の時間を使う。でもそれは、しんどくなんかないねん。自分の人生の時間を1時間かけることで、家族の人生に1人15分の時間をあげられるって嬉しいことやから。まぁ、うちは2人家族やけどね」
2人家族だから、家庭も仕事も1人で回しているから、余計に大変。とは言わない母に、完敗でした。宿題をしたり、お風呂に入ったり、当たり前のように母がくれていた時間を、わたしは、ご飯はまだかと喚くことに使っていたのですから。
あれから何年も経ち、わたしも時間を贈る立場になりました。これから何十年とかけて、子どもたちへと贈る時間は一見、なにもしていない、なんの生産性もないものに見えるかもしれません。親がご飯を作ろうと、掃除をしようと、仕事をしようと、そんなことは当たり前。そう思ってもらえる生活をプレゼントできたら嬉しいです。わたしが贈った時間のなかで子どもたちができることは、ほんの些細な楽しみや、なにかを掴むためのキッカケづくりになれば良いほうだと思います。そのほとんどは遊びや、だらだらと過ごす時間に消えていくでしょう。でも、そんな小さな幸せを贈りたくなってしまうのです。

うわぁーん!と声が聞こえれば終了の合図。キッチンにいれば地震が起きたかのごとく早く火をとめるし、つかの間の休息に淹れたお気に入りの紅茶が冷めたって、トイレにいたって、夜中だって、どんなに仕上げたい書きものの途中だって、子どものもとへと飛んでいく。呼んだらママがそばにくるなんて当たり前。
きっとだれかが家の状況を見れば、一体今日なにして過ごしてたん?と聞くでしょう。もうすぐ終わる育休。取り立ててできたことなんて、なにもなかったと思います。そんな生産性のない日々を正当化しようとボードを叩き、自分のために時間を使っている今が、今日も当たり前を頑張ったわたしへのご褒美なのです。

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