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運動会徒競走 そのレースの組合せ方は「差別」? いいえ「随伴経験」がねらいです

「差別だ!」と憤る父親

 以前、愚息の小学校の運動会に保護者として行った時のことです。
 5年生か6年生の徒競走が始まってまもなく、どの子かの父親と思しき一人の男性が、突然、声を張り上げました。

「差別だ!」

 どうやら、近くにいた知人から、徒競走のレースの組合せ方を聞き、納得できなかったようです。血相を変えてしばらく叫び続けていました。

そのレースの組合せ方とは

 では、どんなレースの組合せ方をしていたのでしょうか。
 一般的に徒競走のレースの組合せ方は、次の三通りです。

①背の順や五十音など、走力とは関係のない順番で各学級で走る順番を決め、その後で、全部の学級を合わせる。
 
②子供に「くじ」などを引かせ、走る順番を決める。
 
③事前に50mの記録を取り、各学級が速さ順で走る順番を決め、その後で、全部の学級を合わせる。

  
 ①の方法では、大体同じぐらいの身長の子と走ることになります。
 ②は、誰と走るかは運次第です。
 ③の場合は、大体同じぐらいの走力=速さの子と走ることになります。学級編制の際に、運動能力も加味して平均的に子供たちを「割り振る」からです。
 
 ちなみに③の方法で決めた場合、走る順番をシャッフルするのが通常です。応援する人に対して、「このレースの子たちは、学年で一番遅い子たちだ」とあからさまに示さないためです。
 
 さて、「差別だ!」とある父親が強く感じたのは、どの方法だったのでしょうか。

 それは、③の方法でした。

 恐らくその保護者の方は、①や②などの走力とは関係ない「偶然」による組合せで順位が決まることが、「フェア」であると考えたのでしょう。
 
 この記事を、現在お読みの方はどうでしょうか。
 やはり、③は差別的な方法で、①や②がフェアだとお考えでしょうか。
 

なぜ、教師は③を選ぶのか

 私も愚息の小学校の教師と同じように、③の方法で長い間レース編成をしてきました。
 
 理由は、次のことに尽きます。
 
理由:「子供の徒競走への意欲を引き出し、練習に進んで取り組むことを促すため」
 
 まず、前提として、運動会で順位を付けることについての考えを整理しておきます。
 運動会では順位を付けるべきです。
 それは、「競技」を行っているからです。
 たとえば、1年生が体育で「ドッジボール」をしたとします。「勝敗」は、必ずはっきりさせます。それが、運動競技の特質だからです。
 「かけっこ」も同様です。「かけっこ」とは、速さを競う競技です。だから、順位が付くのです。
 
 日本の社会は、教育に対して、子供の個性を尊重することを望みながら、横並びであることも求めます。極めてアンビバレンツです。
 そのため日本の教師には、苅谷剛彦氏の言葉を借りるなら、教室の中に「自ら差異(あるいは不平等)を生成し可視化しつつ、その縮小と不可視化を自らが試みるという」「アクロバティックな振る舞い」が求められました。(『教育と平等 大衆教育社会はいかに生成したか』中公新書2006,p.274)

 その行き過ぎた結果が、運動会の徒競走で「みんなで手を繋いでゴールする」という滑稽な光景です。
 
 しかし、先に述べたように、体育や運動会で順位を付けることは、間違ったことではないのです。それが、運動競技というものだからです。
 
 最下位になった子の心が傷付くとか、敗因を背負うことになった子が苦しむとか、そうお考えでしょうか。
 誤解を恐れずに言えば、それでいいのです。
 体育指導の世界では、子供の感じるそうした心情を、「ひりひり体験」と呼びます。そして、これは体育でなければ味わいにくい心情であるとし、教育的価値をそこに置いています。「負けた経験」は、無駄ではないという考え方です。
 
 その上で、③の方法が最上であるのはなぜせしょうか。
 
 陸上や水泳などの競技大会では、レースの組合せは「くじ」的な運で決まります。それなら、運動会でも同様でいいのではと思うかもしれませんが、そうはいかない理由があります。
 運動会では、本番から数週間前にはレースの組合せを決めます。並び方や入退場の練習もしなくてはならないからです。そのため随分前から、自分が走る相手が分かってしまいます。それは、本番で「勝つか負けるか」「何位ぐらいになりそうか」の予想が付いてしまうということです。
 すると、圧倒的な走力差の子と走らなければならないという子が出る場合があるのです。子供によっては、「残酷」ですらあるでしょう。
 これは、「ひりひり体験」とは、違います。

 既に走る前から諦めてしまう子も少なくありません。
 走ることを苦手に感じている子供ほど、そうした傾向があります。

 「どうせ走っても勝てない」という経験を重ねさせることは、心理学でいう「学習性無力感」の状態に子供を陥らせる危険性があると考えます。

 このことが原因で、運動会前に不登校になる子もいるほどです。
 
 では、「徒競走を実施しない?」「やはり手を繋いでゴールする?」
 それでは、本末転倒です。
 
 教師がするべきことは、「やらない」という選択ではなく、子供に、「やってみたらできた」「やればできる」という、行動に肯定的な結果が伴う「随伴経験」をさせることのはずです。

 だから、③の方法なのです。
 
 速さの近い者同士の競走ですから、どの子も「勝てる」チャンスが0では、なくなります
 もちろん、それでも子供の中には、「あいつはすごく速いから無理だ」と感じる子もいます。
 だから教師は、早目に組合せを作ってしまい、子供にこう話します。
「人間は、一か月で足が速くなれます。練習することで、運動会の結果は変わってきます。」と。
 
「一か月で足が速くなる」、これは事実です。走り慣れてない子供ほどそうです。
 そのために、授業で、走る姿勢、腕の振り方、足の踏み出し方、コーナーの回り方、スタートの仕方などを指導します。
 やる気のある子は、登校後、朝、運動場に出て走り込みすらします。
 
 そのやる気を引き出すために、③の方法でレースを編成するのです。
 
 子供によって走る速さが違うのは、当然のことです。しかし、それをそのまま徒競走に反映させるのではなく、逆にそのことを活かした徒競走にするためのレースの組合せ方法が③です。

 これは、「差別!」でしょうか?