「これからの「正義」の話をしよう」(マイケル・サンデル 著)
前の投稿から1ヶ月近くあいてしまいました。仕事のほうが忙しかったのもあるのですが、実はこの本がなかなか読み進められなかったというのもあります。物語に入り込んでしまえば知らぬ間にページをめくっている小説と違って、哲学書というのは読み進めるのになかなか体力が要りますね。
多くの人と同じように、私がはじめてサンデル教授のことを知ったのは、2010年春にNHKで放映された「ハーバード白熱教室」がきっかけです。身近な問題と結びつけた分かりやすい講義、ハーバードの優秀な学生も参加した刺激的なディスカッションに、初めて見たときから強く惹きつけられたのを覚えています。
書籍もほどなく出版されていたようなのですが、なぜかそちらは意識にのぼることがなく10年以上の時が過ぎてしまいました。今回手に取った文庫本は、なんと第46刷なんですね。すごい。
読み始めてみると、NHKで見ていたときの話が時々出てくるのですが、さすがにテレビほど簡単には読み進められません。途中で何度もほかの本を読み始めたくなりましたが、(自分の性格を考えると)ここで読むのをやめたら死ぬまでこの本を読み終えられないだろうと思ったので、頑張って読み続けました。笑
自分自身の理解のために内容を本当にざっくりまとめてみます。正義とは何かという問いに対して、(おそらく歴史的に)有力な3つの考え方を挙げています。
特定の尺度で測られる、市民の幸福の総和を最大化すること
(功利主義)個々の人間が選択できる自由を最大化すること
(リベラリズム、リバタリアニズム)コミュニティにおける共通の善を実現すること
(コミュニタリアニズム)
ただサンデル教授が言うには上二つには欠陥があって、例えば功利主義で前提となる「幸福を測定できる唯一の尺度が存在する」という仮定に無理があるし、リバタリアニズムのように「善き生」は何かという問いから目を背けることは、結局社会を弱体化させてしまうのではないか、というのです。
個人的に特筆すべきと思ったのは、この主張がトランプ大統領の登場や、陰謀論の蔓延より前になされたことです。特にここ最近、公的な場で「善き生」とか「人間にとって共通の美徳」とは何かを論じることは、ある種のタブーのように扱われているように思います。その結果、分かりやすい原理主義を主張する人物が出てくると、その論理的な矛盾を検討することに慣れていない多くの人が傾倒してしまいます。これは我々がまさにこの10年間、日本を含む世界中で目撃してきたことです。
言うまでもなく、こうなってしまった背景には第二次世界大戦の影響があると思うのですが、その反省の結果として社会全体が道徳的問題を検討する能力を失いつつあるというのは皮肉な話だなと感じました。日本ではアメリカで起こったことが10年遅れで起こると言われていますが、トランプ大統領が誕生したのが2017年ということと、今の日本で進みつつあるポリティカル・コレクトネスの蔓延とそれに対する不満の蓄積を考えると、日本社会が「互いに聞く耳を持たない両極」へと分断されていくことへの不安を感じずにはいられません。私も誰でも読める文章を書いている人間のひとりとして、そうした危険性を認識しないといけないなあと思ったのでした。
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