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つらい顔

以前はつらくてもつらい顔などしなかった。
誰が見ていなくても、顔を歪めたりはしなかった。口角を上げて、瞼を開いて。母は幼いわたしに言ったのだ。「いいお顔しなさい」

いまは簡単に顔がゆがむ。つらい時、しんどい時、誰も見ていないのに、わたしはこんなに苦しいですよとアピールするかのように、容易に口角は下がり、眉間は縮む。たぶんここ半年くらいで、わたしの顔はかなり険しくなった。いやだなあ。もう戻らないかしら。

子どもであった頃、周りの大人たちはなぜこうも簡単につらそうな顔をするのだろうと思っていた。咳払いをしたり、喉を鳴らしたり。街で、電車の中で。
どう転んでも大人でしかない年齢となり、今わたしの顔を見上げる子どもは思うのだろう。なぜそんな顔をするの?と。

走っていないせいか眠りの質が落ちて、明け方に夢を見て目覚める。今朝もそう。夢の中でわたしはどうにもならない相手と格闘していた。いや、どうにもならない相手を前に、ただ忍従する自分の心と格闘していた。相手がどんなに駄目であれ、静かに見守ることを求められる。その状況に甘んじる自分こそがいかに駄目であったか。
その自覚のないままに、一人の人の存在が絶対的だった時期があった。とても苦しかった。
それから10年近くになる今、夢の中で、わたしはその時の苦しさを追体験していた。

目醒めた時、俄に啓示は降りてきた。頭上の雲は音速で流れて消えた。
それが夢と気づき、同時に今の自分の幸せに気づいた。いまは自由だ。なんて息がしやすいんだろう。何をか嘆かん、何もつらいことなんてない。

つらい顔も、しんどそうな身ぶりも、もう一度手放したい。気がついたのだから。何かを絶対と思い縛られてはいないか。すべてを洗濯機に放り込み、きれいに洗う。広げて干して点検する。
もう大丈夫。いいお顔しなさいな、と、母の声。


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