「火花」(又吉直樹)の題名を「花火」と思ってた。
芥川賞小説を読むムーブが続いています。
読み終えて、この記事を書くときまで、題名は「花火」だと思ってました。おまえは今まで何を読んでたんじゃい!
せっかくなので、「花火」と「火花」の違いを考えてみます。
なんで私が「花火」という題名だと思い込んでいたかというと、そりゃもちろん、冒頭と結末の熱海での花火のシーンがあるからです。
打ちあがり、一瞬で散る、花火そのものに漫才師とを重ね合わせて、場面も合わせて、、、というまあ分かりやすいし別にいいじゃん的なタイトル。
一方「火花」の場合、思いつくのは戦いのときの二人を例えて「火花を散らす」といった使い方。
ドーン、と大きい花火と違い、二人のにらみ合っている空間の真ん中で電流バチバチみたいな。
そうすると、この散らしている火花は暗に二者を必要とする表現なのかもしれない。
それが、神谷と徳永なのか。スパークルとあほんだらなのか。それとも、オーディションなどで、戦い、勝ち抜くといった芸人同士での意図なのか。
そうなると、花火というタイトルでは少々牧歌的かもしれない。
チリチリとした焦りや卑屈や憧憬を含む火花の方が作者の意図した作品の世界観なのだろう。
さて、最近読んだ小説の中では圧倒的に文章量が多いし、密度や情報量が多いので疲れました(笑)
今までのゆるっとした読書はこちら。
その文章の情報量が、「僕」と「神谷」の閉ざされた空間をより密度の濃いものにしていて、こう、、、気持ち悪かったですね(笑)
異性的な視点が一切入っていないのも、「僕」という人間像が表れていてよかったです。
それにしても、最後の神谷の振る舞いがだんとつに気持ち悪くて、やりすぎでは?という感があります。あまりにも作り事めいていて。
でも、もしかしたら作者の思う「神谷」という漫才師はそうすることもあり得たのだし、そういう人物像として描きたかったのだろう。
「芸人」さんが読んだら、「その気持ち分かるわー」となるのかどうか。
「僕」が徹底的に師匠である神谷を否定するには、あれくらいのインパクトが必要だったのだろうけど、読者としては神谷の狂気性よりも、小難しいことをいうけど優しいおっさんの方がイメージが強かったので。
面白かったのは冒頭のあほんだらの漫才(というかどうか)と、最後のスパークルの漫才。
個人的には、もっと、こういうのが見たかったな。漫才中の思考とか、漫才時の日常の影響とか。まあ、これはノンフィクション好みですね。
幾千、幾万の、芸人を目指して散っていった火花の一つのお話。
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