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フィンランドの歴史における女性作曲家たちの祭典/第2部:アイネス・チェチュリン

スザンナ・ヴァリマキ著(2019年5月2日掲載)

フィンランド・ヴァイオリン作品におけるレパートリーのパイオニアであり、ヨーゼフ・ヨアヒムの学派のヴィルトゥオーゾ-これは作曲家でありヴァイオリニストであったアイネス・チェチュリン(1859-1942)に当てはまる、格好の呼び名である。彼女はヘルシンキ音楽学校(現在のシベリウス音楽院)の最初期における花形学生であり、後に傑出した国際的なキャリアを築いていった。

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 1884月4月2日、オペラ歌手であり声楽教師であったエミリー・メシェリンはヘルシンキ音楽学校のマチネでアイネス・チェチュリンの書いた3つのリートを歌った。その翌月、チェチュリン自身が学生演奏会で自作のヴァイオリンとピアノのための《ロマンス》を演奏した。これらは1882年秋に創設されたヘルシンキ音楽学校(後にシベリウス音楽院へと発展した)において、恐らく学生による作品が初めて公的に演奏されたものであろう。

 チェチュリンは、音楽学校の最初期(1882-1885)における花形学生であった。彼女は学内のコンサートでヴァイオリン協奏曲とピアノ協奏曲を自作作品とともに演奏した。彼女はまだ学生だったが、プロのアンサンブルに加わったり、著名な演奏家のコンサートを手伝うなどもしていた。

先進的な家族環境

 音楽学校において、チェチュリンはヴァイオリンをハンガリー生まれのアントン・シットから学び、共にアンサンブルを行った。また、作曲は学長でもあるマルティン・ウェゲリウスから教えを受けた。アイネスは幼少期から音楽教育を受けており、ドイツ生まれのグスタフ・ニーマンをはじめとするヴァイオリニストから既に学んでいた。彼女の家族は言語や文化、芸術に熱心であり、「ガラスの天井(訳注:女性や少数民族の社会進出を阻む見えない障壁のこと)」を打ち破ることに熱意を燃やしていた。

 アイネスの姉、マリア・チェチュリンは、フィンランドで初めて、そして北欧諸国で初めて大学入学試験を受験し(1870年)、大学での勉強の資格を取得したことで名の知れた人物となり、プロフェショナルな活動を追い求めた。アイネスの妹、ウジェニーメラニーは音楽と語学の教師となった。母ヒルダは中央ヨーロッパ様式のサロンを経営し、音楽の演奏企画を立て、訪問したアーティストたちをもてなして回り、また社会革新のための議論を行った。そして彼女の父フョードルは進歩的な意思を持ったビジネスマンであり、商人・船舶所有者・レンガ製造を行っていた。

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〔写真:ヘルシンキ音楽学校の黎明期におけるヴァイオリン科の学生たち。ここではアイネス・チェチュリン(右側にいる縞模様の服)とシベリウス(左側に座っている)が共に映っているが、同世代の学生ではない。この写真はおそらく1885年初秋に撮られたもので、この時チェチュリンはベルリンの王立音楽院に向かったところであり、シベリウスはヘルシンキ音楽学校で学習を始めたばかりだった。 
チェチュリンの横に立っているのはアンナ・ティゲルステート(1860-1946)であり、自身の学習の一部として彼女と共に室内楽を演奏した。前に座っているのはグンナル・ベリロス、その左側、未確認の少女の隣にいるのがエリン・ワーンヒェルム(旧姓ロンブラート)である。チェチュリンはアントン・シットの門下であったため、中央にいるミトロファン・〕ァシリエフは彼女を教えることはなかった。
写真:トゥルクのシベリウス美術館から〕

ベルリンのコスモポリタン…

 アイネス・チェチュリンは1885年にヘルシンキ音楽学校から初めて卒業証書を受け取った4人の生徒のうちの1人であった。同年秋、彼女はベルリンの王立音楽院に留学した(現在のベルリン芸術大学)。おそらくこの学校に入学した最初のフィンランド人だろう。

 チェチュリンはベルリンで4年間学んだ。2年目から彼女はヴァイオリンとアンサンブルを伝説的なヴァイオリニストであるヨーゼフ・ヨアヒムと演奏を共にしながら学んだ。当初は名の知れたヨアヒム弦楽四重奏団でヴィオラを演奏していたエマニュエル・ワースに学んでいた。彼女は作曲をハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルグヴォルデマール・バルギールに学んだ。後者は今日クララ・シューマンの異母兄弟として知られている。

 彼女の音楽史の教師であったフィリップ・スピッタによる推薦状によると、彼女は勉学に秀でていたという。彼女は政府からの助成金を受けており、彼女の学習、コンサート、作曲作品はフィンランドの新聞によって報道された。

 ベルリンでは、ヨアヒムやヨハネス・ブラームスの親しい仲間のひとりであった、ヴァイオリンの巨匠マリー・ソルダート(1864-1855)と親しい友人となった。1887年にソルダートは気鋭の弦楽四重奏団を結成した。この四重奏団の第二ヴァイオリンをチェチュリンが務め、ヴィオラにはガブリエレ・ロワ、チェロにはルーシー・キャンベルが務めた。この一団は世界で最初の女性によるプロフェッショナルな弦楽四重奏団と宣伝された。彼らはヨアヒム弦楽四重奏団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団も運営していたヘルマン・ヴォルフ音楽事務所によってマネジメントされていたのである。

 チェチュリンはこの四重奏団と共に2年間かけてドイツを旅して周った(時にメアリー・シューマンが代演を務める時もあったが)。時を同じくしてジムロック社が、ヴァイオリンとピアノのための《子守歌 Berceuse》(1888年作曲)や《ハンガリー風に Alla Zingaresca》(1890年作曲)、ピアノのための《優雅なワルツ Valse gracieuse》(1897年作曲)、ヴァイオリンとオーケストラ(またはピアノ)のための《ガヴォット Gavotte》(1906年作曲)といった彼女の作品の出版を始めた。当時の多くのヴァイオリニストが自身のリサイタルでチェチュリンの作品を演奏している。

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チェチュリンは、イギリスのグロスターシャーにあるチェルトナム・レディース・カレッジでヴァイオリンの教授を務めた。写真は、音楽棟から見た図書館棟とグランド・プリンセス・ホールを写している。

…そしてチェルトナム、ロンドン、ストックホルム

 1891年秋、チェチュリンはイギリスのチェルトナム・レディース・カレッジでヴァイオリン教授の職に就き、13年間赴任した。この学校は、婦人参政権論者・教育改革者であるドロシア・ビールが主宰する進歩的な教育方針を持つ寄宿学校であり、音楽に対する優れたプログラムを持っていた。1904年に職を辞してロンドンに移ったチェチュリンは、緊密に結びついた(女性の)同僚たちのネットワークを頼り、フリーランスの音楽家、作曲家、教師としての地位を確立した。彼女は同年にイギリス人としての国籍を取得した。

 第一次世界大戦中、チェチュリンはしばらくの間フィンランドに戻っていたが、1920年代初頭にはストックホルムに居を移し、老年に至るまでヴァイオリンやアンサンブル、作曲を旺盛に教えながら、残りの人生をこの地で過ごした。彼女は親しい仲間であったピアニストのトーラ・ファス(1861-1918)と同じ墓に埋葬された。

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ヴァイオリンの作品がヒットしたお陰で、チェチュリンは19世紀に国外で最も頻繁に演奏されたフィンランド人作曲家の1人となった。バジル・アルトハウスの指導書『ヴァイオリン独奏曲選集とその演奏方法』(1900年刊行)では、アンコールとして彼女の《ハンガリー風に》(1891)を勧めており、これが今日でも確かな有用性を持っている。

作品―サロンの優雅さから軽快な行進曲まで

 チェチュリンはヴァイオリンとピアノのための作品、独奏作品、合唱作品、オーケストラ作品、および教育のための作品を書いた。彼女の作品の多くは失われてしまったが、《ロマンス》を除けば、この記事で名前が挙げられているものはすべて歴史的な出版物として入手可能である。

 チェチュリンの音楽は、中央ヨーロッパにおける世紀末的な優雅さを持つ、サロン的精神に基づいた後期ロマン主義的な様式で、豊かな旋律、感覚的な拍節、ヴィルトゥオジックな効果が特徴的である。

 チェチュリンは1878年に19歳で自身の最初の作曲を発表した。《1877–78年の戦争から帰ったフィンランド兵たちに捧げる行進曲 Marsch tillegnad Finska Gardet vid dess återkomst från kriget 1877–78》はピアノのために書かれたが、後に吹奏楽のために書き換えられた。この爽快な作品は聴衆に好まれ、フィンランド兵オウル大隊の両軍楽隊はこれを19世紀末のコンサートや兵隊の行進時に演奏した。音楽的にも堂々たるもので、歴史的な価値を有しており、ジェンダーの平等性という観点からも全く無関係ではないこの行進曲は、軍楽隊のレパートリーに復活させるだけの価値があり、例えばフィンランド共和国大統領の独立記念日の式典などでの演奏にも適うだろう。「フィンランド音楽遺産プロジェクト」では、この作品のスコアとパート譜を出版する計画がある。

 チェチュリンは多くの行進曲を書いた。彼女のユーモアにあふれた軽快な《ブリテンの歌 Britain’s Song》(1921年作曲)は、ストックホルムの王宮の衛兵交代時に演奏されている。《ヴォユリ行進曲 Vöyrinpoikien marssi》(1918年作曲)は、フィンランド内戦の白衛隊に関する作品であり、実に陰鬱な足音が聞こえてくる。

 アイネス・チェチュリンはコスモポリタンな作曲家・音楽家の魅力的な例であり、彼女の生涯と作品に関する考察はフィンランド音楽史について、またフィンランドの女性の歴史について、私たちの文化遺産、そして最終的には我々自身についての従来の概念を変える一助となるのである。

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左:ウィーンのヴァイオリニスト、マリー・ソルダート・レーガーは、チェチュリンの重要な同僚であり友人であった。どちらもヨアヒムのもとで学んだ。ソルダートは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲のウィーン初演を行った、ブラームスが好んだヴァイオリニストとして一般的に記憶されているが、女性音楽家としても著名であった。ソルダートは自身のリサイタルでチェチュリンの作品を演奏している。
写真:J.C.シャールヴェヒター(1885年撮影)、フランクフルト大学図書館
右:1890年代のアイネス・チェチュリン。
写真:シベリウス博物館、トゥルク

※冒頭の写真:アイネス・チェチュリン、写真:シベリウス博物館、トゥルク

 アイネス・チェチュリンの《ハンガリー風に》の楽譜はこちらから閲覧可能。(volume 1の最後から2番目の曲、23ページ(PDFの27ページ))

アイネス・チェチュリンの《子守歌》はSpotifyで視聴可能

 ヴァイオリニストのミルカ・マルミとピアニストのティーナ・カラコルピが、アイネス・チェチュリンの作品を、リサイタル「女性とヴァイオリン」シリーズ第6回「ロマンス」( 2019年8月11日にフィンランドのエスポーにあるガッレン=カッレラ美術館で開催)で演奏予定である。このリサイタルは、スザンナ・ヴァリマキが主催する。

 スザンナ・ヴァリマキ博士は、アイネス・チェチュリンの伝記を執筆中。彼女はトゥルク大学の音楽学の主任講師である。

情報源

資料:ベルリン芸術大学アーカイブ(UdK)/チェルトナム女子大学アーカイブ/フィンランド国立公文書館/フィンランド国立図書館/デンマーク王立図書館/シベリウス音楽院アーカイブ(ウニアート・ヘルシンキ・アーカイブ)/シベリウス博物館アーカイブ/ベルリン国立音楽研究所

過去の新聞記事:ANNO – オーストリア歴史新聞・雑誌オンライン Historische österreichische Zeitungen und Zeitschriften, オーストリア国立図書館/英国新聞アーカイブ/フィンランド国立図書館における電子化された新聞/スウェーデン新聞 Svenska Dagstidningar, スウェーデン国立図書館

文献

アンカトリン・バッベ:『アイネス・チェチュリン』—「18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの女性器楽奏者たち」から Agnes Tschetschulin. Europäische Instrumentalistinnen des 18. und 19. Jahrhunderts』2013年、ブレーメン、音楽学における女性・ジェンダー研究のためのソフィ・ドリンカー研究所

ユッカ・クハ:『フィンランドにおける音楽機関の歴史—国際的な例と初期から1969年までの発展  Suomen musiikkioppilaitoshistoriaa: Toiminta ulkomaisten esikuvien pohjalta vuoteen 1969』2017年、ヘルシンキ、ヘルシンキ大学、音楽学

ジルケ・ヴェンツェル:『アイネス・チェチュリン』—「インターネット上の音楽とジェンダー」から  Agnes Tschetschulin. MUGI – Musik und Gender im Internet、2009年、ハンブルク、ハンブルク音楽演劇大学

(邦訳:小川至)

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こちらの記事は、ウェブマガジンである「フィンランド音楽季刊誌(FMQ)」に掲載された記事の邦訳文章です(2019年5月2日掲載)。
著者のスザンナ・ヴァリマキ女史に許可を頂いた上、翻訳・掲載しております。
以下のサイトにて原文をお読みいただけます。

なお、現在、本連載記事は、上記FMQにてPart 6まで公開されています。
以下に現在公開済みの拙訳へのリンクを纏めました。


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