なぜ道連れを求めるのか

悲しいことだ。

自分が悲しんでも仕方のないことだとはわかっているが、あまりにも悲しいことだと思う。


28日午前7時45分ごろ、川崎市多摩区登戸新町の小田急線登戸駅周辺で「複数人が刺された」と119番があった。神奈川県警によると、小学生16人を含む18人が刺され、小学6年の女児(12)と男性(39)が死亡した。県警は刺したとみられる男の身柄を確保したが、包丁で自分の首を切り付けており、搬送先の病院で死亡が確認された。


今日も穏やかな1日が始まると思って、普通に学校へのスクールバスを待っていた小学生の子供たち16名を含めて、18名の人が無差別つまり顔も知らない50代の男に襲われ、そのうち2名が殺されてしまった。


今日ぼくは寝坊をして、朝から約束をおもいきりすっぽかしてしまっていたのだが、僕がうっかり寝ていた時間にはすでに人が死んでしまっていた。友達がその記事を紹介してくれた、というか自分では持ちきれず、そのニュースを僕に伝えないと、苦しくてやってられなかったのだろうと思った。


最初は2名が心肺停止で、犯人も肩に傷を負っている、というような報道であったが、そのうち2名が死亡して、犯人も自分で首を切って死んだのだという内容に更新され、それによって胸糞の悪さはより一層高まった。


最初から死ぬつもりであった人間が、ひとりで死ぬことを選ばずに、その辺にいる誰でもいい誰かを巻き込んで勝手に死んでいったということ。

自分のエゴに付き合わせるという点において、こんな馬鹿げた行為ってのはあるもんだろうかと、そしてそんな勝手なやつに巻き込まれて、たまたま、そこにいたばっかりに殺されなきゃいかんってのは、一体なんなのか。


ひたすら胸糞が悪い。
というか、とても悲しい。


たまたま自分に同じくらいの子供がいるということも大きいかもしれない。小学校6年と5年の息子たちに危険が及んだとき、どんな気持ちになるのか、そして罪もない彼らを傷付けたり、殺害した存在とどのような気持ちで向き合うことができるのか。まして、そいつが勝手に死んでいったのだとするとどんなにやりきれないような気持ちであったろうか。

そんな想像がつきやすいからこそ、悲しみにいくらかリアルさがあるため、余計にこの事件を通して感じる嫌な気持ちが大きいように思う。


無差別殺人なんてものは、なんて身勝手なんだろうと思って、どうしてそんなことをするのかということを調べてみた。


こういうのは探せばいくらでも出てきて、いろいろな考察があった。
無差別殺人犯もまた弱者であり、救われるべき存在だった、という論調にはまったく賛同できない。これもまた自分の当事者度合いが高いからなのか、それはちょっとよくわからないんだけど、とにかくやりきれない。

どれだけ理由が定義されていても、なんの気持ちの解決にもならない。
別に解決を求めているわけでもないし、とにかく残念な気持ちがあるだけ。


起こってしまったら最後、もうなんの理由があっても、どんな論があってもなんにもならない。とにかく悲しいことが起こってしまって、誰にも何にもできなくて、ただ絶望的な状況なのだというだけ。なんにもならない。


救われようのない漫画も、映画も、事実も、本当につらくて嫌いだ。
シンプルに見たくもないし、あえてそれで自分の気持ちをえぐるのも、絶対したいと思わない。本当に起こったら嫌なものなど、フィクションであっても見たいとは思わない。あー、いやだ。


なにが書きたいってことではなく、やりきれない。
ぼくには遠く関わりのない人たちの死であるけれど、やりきれない。

世界をこんなに悲しませることがあるんだなと、感じた。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。