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生きづらさを愛と光へ!NO.3 あの時のあの決断、決して間違いではなかったにしても、数年後結果として現れ、気付かされるってことはある。

2024年に入り、帰省していた息子たちが、県外へと帰って行く頃、うちの家族は風邪をひいて、それから、今年は何となく始動しないまま、現在に至る。

しかし、少しづつ動き始めている。

今更的ではあるが、この歳になり(明日また一つ歳を重ねるのだけれど)、時間が数年経過して、あの時のあの決断は、正しかったんだろうか?とは思わないが、あの時のあの決断により、こうしていれば逆にどうだったのか? 
とも、思ったりはする。

これは後悔とは少し違う。

結局、そんなことを思ったところでどうにもならないが、自分軸、それが、9年前にあったとしたら、私は仕事を辞めることはしなかったのかもしれない。

今の私なら、どうしてあの時、自分のことことを大切に考えず、人のことを大切に考えてしまったのか、そう思うことも、カウンセリングを約3年間していただいて、自分自身の考え方が変わったことにより、考えられたのである。

人のこと、家族のことを大切に思うことは決して悪いことではなく、当たり前なのかもしれない。

しかし、それはシャンパンタワーの法則と同じで、自分自身が幸せでなければ、シャンパンタワーから溢れ出た幸せは、家族にも分け与えることはできない。

あの時のあの決断!その時はそう思ったし、それしかなかった。
そして、それがその時代の常識、当たり前と思われる、私を取り巻く環境では、そうだったということである。

きっと、別の決断をしても良かったのかもしれない。

そして1番大きいことは、自分自身が自分自身を嫌いだったということ。

それが、自分自身が自分自身を好きで、いわゆる自己肯定感も高かったとしたら、恐らく、その時のその決断とは、2つの中から選ぶとしたら、もう1つの方を選び、決断したのではないかと、凄く思うからである。

それだけ私の心の中は変わったということでもある。

今だから言える。
そうかもしれない…

娘の不登校に踏まえ、考えてみて、note界の大物である上達の探求さんから、数ヶ月前に教えていただいた本をまた、読み始めてみると、目から鱗とはこのことか、と思うほど、なるほど、なるほどと思うことが書いてあった。

阿部伸一さんの著書「不登校は天才の卵」という本であるが、最近、寝る前の読書の時間をとるということが滞っていたので、2冊の本をダブル読みをしている私は、また、少し反省し、この本は、2度目を読む価値、いや、今の私は読むべきなのかもしれないと改めて思ったのであった。

育児、子育ての本はたくさんあるが、本の通りにはいくわけではない。
環境もその子どもの気質や、性格もそれぞれだから。
あくまで、本は参考にするくらいである。


私は昨日寝る前にほんの20分程だったと思うが、その本を読んで、私はまだまだ、娘本人の気持ちに寄り添ってとか、本人の気持ちになってとは頭では分かっていても、本人の立場ではなく、結局はまだまだ親の立場で娘を見て、娘の目の高さではなかったということに気づいた。

親の立場ではなく、自分が学校を休んだ娘になったつもりで考えなければならなかったと気付かされた。

親は自分の好きなこと、仕事などをして、輝くことを忘れてはいけない、的なことを書いてあった。

表現は違ったと思うが、そういうことである。

父親の立場も、母親以上に関わり方は大切だったようだし、決して子育ても、母親だけの責任ではないことは確かのようである。

不登校はいけないこと、と言ってしまえば、娘のことも否定することになる。

義母の介護をすることになって、私はそれまで働いていたパートの仕事をやむなく辞める決断をした。
仕事もちょうど、面白くなってきた頃だった。
それまで色々なことがないわけではなかったが、仕事も続けたかったのが本音だったかもしれない。

環境、タイミング、しかし、私の決断、私たち家族の決断は決して間違ってはいなかったと今でも思う。
現に、その時の決断から義母の命は9年ほど延びたのだから。

しかし、あくまで、娘の立場だけで考えると、ずっと義母の介護をしている私を見てきている。

子どもの捉え方も、その子、その子で違うだろうけど、私がやむなく仕事を辞めたり、我慢せざるをえなかったり、娘本人も、やりたくてもやれなかったということもあった。

丁度、小学2年生の時だった。

介護をやりはじめて、私は慣れない介護に一生懸命の時だった。
小学校での部活のバスケット部に入らない?という声が掛かった。

と言うか、どちらが先だったかわからない、私がバスケ部のことを聞いて、うちの庭でもまだ、娘は幼かった頃から、ボール遊びや外遊びはよくやっていた。

私も小学生の頃、強制的ではあったが、バスケの経験もある。
お友達を作るにもってこいの環境だとも思ったし、その頃は、そこまで吃音のことも、今ほどは気にはしていなかった。

娘もそのタイミングではやる気になっていたが、私が、義母を見ないといけないから、部活の送迎や試合も行けるか難しいという理由から、その話は流れていった。

本当に娘の立場と言うよりも、娘になったつもりで考えると、何をやるにしても、親に対しても遠慮の気持ちや言えなかったりすることはあるのかもしれない。

それと、どうしても、義母から目が離せなかったので、娘よりも義母をみていることが多い。

旅行にしても、私は正直、楽しむと言うよりも、家族全体を楽しませる、と言う側に回っている。
それも決して悪いことではないのは分かっているが、常に義母が付けているバルーンカテーテルの尿パックを踏まないように、引っ張らないようにとばかり気にかけないといけないということは、正直、旅行どころではないのである。

そんな状況の中、娘の気持ちはどうだったのか、娘の立場で考えたら、少し悲しいのかもな、とも思える。

義母の体の全体的なことをみると今年はもしかしたら大きな変化はあるのかもしれない。

昨年入院した時に予約した施設もある、義母の気持ちもある、家族、娘の気持ちもある。

今年は娘も受験生になる。

もう少し、娘になったつもりで考えてみようと思っている。

上達の探求さん、いつも色々な情報と、素敵なnoteをありがとうございます。
教えていただいた本の中からも学ぶことはたくさんあります。

もちろん、皆さんのnoteからも色んなことを多く学ばせていただいています。

心より感謝申し上げます。


今日も最後までお読みいただき、心よりありがとうございます^ ^










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