見出し画像

ヨガをすること

私は1年前からヨガを習っている。

そこまで、真剣にやっているわけではないが、始めたきっかけは、「混乱した感情により、めちゃくちゃな選択をしてしまう時があって、それは損をしている気がする」と思ったからだった。


混乱した感情を扱えるようになるために、瞑想やら何やら、いろいろ試してはみたものの、一人でやるよりも、習った方が充実感がある、と思ったのだ。

そこで、選んだのが、ヨガだった。


周りの人からも、よく激昂し、泣いたり怒ったりで忙しい私に、「ヨガでもやったら?」と、勧められたというのもあるかもしれない。


さて、呼吸に気をつけたり、さまざまなポーズを取ったりするヨガだが、私はヨガを極めたいとは思っていない人なので、ヨガについては述べない。


ただ、私が感銘を受けた、ヨガの導入の言葉について話したい。

それは、

「ヨガは、誰のためでもなく、自分のために行います。今この時間を、誰のものでもなく、自分のために使います。


目から鱗だった。

ふと考えた。

私は私のために時間を使ったことがあっただろうか?

誰かの顔色を伺うのに大半の時間を費やし、誰かの欲望を満たしたいがために、自分を使い切っていた。

私は、その行動に疲れてしまって、それらをすることはやめようとしていた。


でも、どうしたらいいのか?は、わからなかった。

もう息を吸うくらい当然のものとして、他人の気分を害さないように振舞ってきたわけだから、そんなすぐに、答えが出るわけなかった。


止めよう止めようと思っても、「あの時あの人の顔が曇ってた、こう言えばよかったんじゃないか、違う行動をとればよかった」そんなことで常に頭がいっぱいだった。



そこで、誰のためでもなく、自分のために時間を使う「ヨガ」は私にとってぴったりだった。

息を吸って吐いて、自分の身体の隅々まで観察する。


自分の身体の動かしづらい場所、凝っている場所に気づく。


足の指を意識して動かすなんて、やったことなかったなとか思ってみる。


自分の身体のくせに、思ったより動かないな、と。

自分の身体のくせに、コントロールが効かないな、と。


自分のことだって、全然知らないし、自分の身体をどう動かしたら、思い通りに動くかさえわかっていないのに、どうして他人のことばかりを、他人の機嫌をとることばかりを気にしていたのだろう?


なんだか、可笑しくて、少し笑ってしまった。


私は今まで、自分の全エネルギーを他人の機嫌に向けてきたのだ。

自分のことに、エネルギーを注いだことなんて、なかったのだ。自分のことを、わざわざエネルギーを注ぐような存在じゃない。大したことないやつだと思っていたのだろう。


固まりすぎて、全然思い通りに動かない身体を抱えながら、自由じゃないね、と呟く。


たぶん、初めて自分にかけた、精一杯の労いの言葉だと思う。


全然、自由じゃないね。

重かった足が、ちょっとだけ軽くなった気がした。



ご興味を持っていただきまして,ありがとうございます。 実はまだ学生です。もし,よろしければ,サポートいただけますと嬉しいです。ちょっと美味しいものを食べたいです。