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Friday Night Essay Club(@代官山蔦屋書店)から、Xアカウントのことへ

 1、Friday Night Essay Clubとは

 先週、4月5日(金)、代官山蔦屋書店で、Friday Night Essay Club(川野芽生、高田怜央、永井玲衣、松田樹、森脇透青)というイベントに登壇した。

「〈書くこと〉で日常を見つめ直すワークショップ」という副題の通り、「エッセイ」を書くことを通じて、日常を見つめ直す実践形式のワークショップである。前半がトークイベント、後半が制作。「エッセイ」の語源である「試み」という意味にまで遡り、いろいろなジャンルを書いてきた書き手がその時の工夫や心構えを話しながら、それぞれの参加者が己の日常生活を題材に書くことを試みてみる、という趣旨のものである。

 トークイベント内でも発言したが、もともとこれは登壇者の一人でもある高田怜央さんが発案者となった企画であり、私も以前高田さんの詩集をご恵贈いただいた縁でやり取りをしていたところから、今回のワークショップに声をかけていただいた。以前から興味のある書き手の方々ばかりだったので、お声がけいただいて感謝である。

 当初はなにを話せるのか分からなかったが、結果として、ふだんの創作指導の経験をシェアするという形で、「書くこと」と「日常」という点に関して提題者をつとめることになった。

イベント前半のトークの様子

 私が用意した当日のスライドは、以下のものである。これを土台に、前半は他の面々に「書くこと」と「日常」の関係性を伺った。改めて著作を読み返してみると、川野さん・永井さん・高田さん・森脇さん、それぞれ日常生活に対する「異化効果」のようなものを読者に追体験させる形でうまく文中に取り入れている、というのがその主な内容である。

 2、「金曜日の夜」について考える


 このイベントが、Friday Night Essay Clubというタイトルになったのは、たまたまみんなが都合の良い日がそこだったということでしかないが、よく考えると、高田さんが出してくれた「金曜日の夜」とは面白いテーマでもある。 

 「金曜日の夜」は、誰でも経験する普遍的な日常の一コマであるが、よく考えるとそれぞれの振る舞いは違う。例えば、「華金」と言っても、それぞれの労働の仕方が違うようにリフレッシュの仕方も異なる。あるいは、そもそもフリーランスでは、曜日にそのような意味づけが伴わない。世界とは、実は、バラバラである。

 そうした労働と休日との関係性からも「金曜日の夜」の持つ意味を考えることができるし、曜日そのものに占星術的な意味を持たせるといった飛躍も可能である。途中で森脇さんがヘーゲルを引用しながら、「思弁的聖金曜日」という謎の(?)言葉を発していたが、たしかに過去の人々は、金曜日をいまのような時間感覚として受け取っていなかったかもしれない。

 その時、壇上で思いついて言及したのは、村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」

 『ねじまき鳥クロニクル』の土台になった作品であり、火曜日に女性から謎の電話がかかってくるだけのお話である。しかし、春樹作品では謎の電話も、妻が突然に失踪してしまうことも、それが火曜日であることこそが、おそらく何かしら重要なのだ。Friday Nightといっても、「華金」をすぐにイメージしてしまう、というのはあまりにも世俗的な、あるいは労働者的な発想にすぎない。曜日に意識をピン留めさせることで日常に異化効果を引き起こすというのは、面白いアイデアだった。

 後半は、ワークショップ形式だったので、参加者それぞれの振る舞いを言語化してゆく中で、やはり差異がはっきりと見えてきて面白かった。「金曜日は記号である」「金曜日は鈴の音である」「金曜日はハイカロリー」…、エッセイの標題になりそうな個性的な表現が飛び交っていた。

3、”Be Creative”――日常的なもの、エッセイ的なもの、私小説的なもの

 同時に、質疑応答の際に、「書きたいけど書けない」という悩みを打ち明ける人が非常に多かったことも印象的だった。登壇者たちはそれに対して、それぞれなぜ書きたいんですか?、なにを書きたいんですか?、とある意味、精神分析家のような受け答えをしていた。

 私の興味関心から、この悩みをパラフレーズすれば、文学の領域で、エッセイ、私小説、生活史などが流行していることに対応する現象であるかもしれない。ちょうど同じタイミングで、「私小説」に関する依頼があり、2000年代の西村賢太の活躍から、現在の金原ひとみ編『私小説』(2023)に至るまでの歴史を辿る原稿を書いていたが、金原が体現するような現在の「私小説ブーム」はそれがダメ人間の典型として否定的な意味を帯びていた西村賢太の時代とは完全に性格を異にしている。

 現在は「私」を書くこと、日常を書くことに、日々の押し流されてゆく生活に抵抗するような、ある種のラディカルな性格が認められる風潮が強い。

 しかし、それは、本当に書きたいのか。ともすれば、書かされているのではないか、というのは一歩進んで、さらに問わなければいけない問題であるのかもしれない(イベント上では森脇さんが自身の連載「【いま、何も言わずにおくために】#001:意味の考古学」に関連付けてそのことを強調していた)。

 現在は、あらゆるSNSツールの下――このnoteもそうであるが――で、書くことのハードルが低下している。と同時に、我々はその下で生活を書け、かつオリジナルであれ(”Be Creative” アンジェラ・マクロビ―との切迫を受けている。
 
 「書きたいけど書けない」という悩みは、書くことで自身を定立せねばならないという強迫観念と、さらにそれをオリジナルなものに仕立てねばならないという焦燥感の現れでもある。

 美大・芸大や創作の世界でも、アーティストになろうと考えていたが、自身には重い主題や特権的な体験がない、そもそもなぜアーティストになりたいという欲望を抱いたのかわからないと次第に思い悩み、筆を折ってしまうというのは、近年よく耳にする話である。

 その意味で、このイベントは、エッセイという広い窓口で書くことの現状を語り合えたおかげで、いまどのような状況で我々が書いているのか(書かされているのか)を再認識するものでもあった。いわば日常生活の美学化の力学が、いまの表現を取り巻いているのかもしれない。upすることで日常を鮮やかに彩りたいという欲望。

 そこから翻って、私はこれまでSNSを毛嫌いしていたが、そのことによりいまの人々が迫られているような切迫感はなく(Youtubeを始めたからには動画を上げずにはいられない、noteを始めたからには日記を書かずにはいられない、インスタを始めたからには写真をupせずにはいられない…etc プラットフォームがなければ自分を書くことの焦燥感もない)、しかしそのことにぬるい環境で書いてきたのだなあという気持ちにもなった。

 また、自分だけイベント告知には寄与することができず、申し訳なく、とりあえず、Xだけは開設することになった。よければ、覗いてみてください。

https://x.com/matsuda1993/status/1776931844371755042


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