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ぼくとフランソワ・シモンさんの15年。 17.

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

潰れそうだったぼくの店を救ったCasa BRUTUS刊行から数年後の秋、フランス人のお客様が6人ほどで来店されたことがある。何事かと思えば、フランスのテレビ局の方たちだった。
ニュースで流す京都の紅葉を撮影しに来られたそうで、彼らをお連れしてくださったのは、当時シモンさんの奥様だった日本人の方だった。
彼女からは何度も「パリに遊びに来られないんですか?」と訊かれ、「もし来られるときには、ご連絡をください」と名刺をいただいた。

それから数年後、今度は余りにも忙しくなった店の厨房でぼくはスタッフへ唐突にこう言った。

「パスポート持ってる?忙し過ぎてこのままだと気が狂いそうやから、パリに行こう!」

このころには店が潰れそうなほどのさしせまった状態は脱していたけれど、かといってそれほど余裕があるわけでもなかった。
そのため超貧乏旅行ではあったけれど、渡航費とお化けが出そうな安ホテルの宿泊費を会社で持ち、一番の繁忙期である春の真っ只中10日間店を閉め、当時のスタッフ2人と1週間パリへ行くことにした。

出発数日前、「パリへ遊びに行きます。そこで、シモンさんがいま行くべきと思われるお薦めのレストランやパン屋さん、ケーキ屋さんがあれば教えていただけますか」とシモンさんの奥様へ連絡すると、返信には「シャルルドゴール空港に着かれたら、こちらにお電話を下さい」とだけ書かれていた。
パリに着き、空港から教えていただいた電話番号へかけると「メトロの○○駅で降りてください」。
教えられるままに向かうと何と、ぼくらはシモンさんのご自宅であるアパルトマンにお招きいただいた。

奥様の手料理をいただき、デザートには当時流行っていた塩をかけたバニラアイスをご馳走になった。
シモンさんのアパルトマンはとにかくかっこいい部屋で、大きな本棚の手前には地下へと続く螺旋階段があったのを憶えている。
この日、シモンさんはランチをポールの社長とご一緒されたそうで、その際に「今夜、日本の “ル・プチメック” というパン屋さんの人たちと会うんだ」と笑いながら話していたと教えてもらった。なぜ笑いながらなのかは、うちの店名に所以する。

「せっかくパリへ来られたのだから、シモンの力で会いたい人はいませんか?
ピエール・エルメさんはどうですか? それとも “ミクニ” がいいですか?(笑)」

なんて話まで出た。
いろんな話を聞かせていただいたけれど、ぼくがどうしても訊いてみたかった批評の是非、ミシュランの功罪についての話に及ぶとシモンさんは少しナーバスな表情になりながらも真剣な表情で少しだけ答えてくださった。
帰る際には、シモンさんご自身が出されているガイドブックや制作に関わられたというアランデュカスさんの本など、いろんなお土産までいただいた。
本当に夢のような楽しい夜だった。

あの夢のような時間から十数年が過ぎた。
今回、Hanakoのパン特集でシモンさんの書かれたエッセイを拝読し、彼がタケ先生のファンであることを知り、この不思議なご縁に改めて驚いた。
また「フランソワ・シモンさんにエッセイを書いていただくことになったので・・・」と久しぶりにご連絡をくださったのは、長年Casa BRUTUSを担当され現在はHanakoを担当されている西村さんという女性で、彼女こそが15年前、潰れそうだったうちの店に目を付けシモンさんをお連れしてくださったその人だった。
西村さんにはいくら感謝をしてもしきれないし、無論彼女に足を向けて寝るなど言語道断である。

シモンさんはエッセイの中でこう書かれている。

「西山さんにはそれ以来お会いしていない。あれから長い年月が過ぎた。私は彼に挨拶に行って、ここ数年のお互いの近況を語り合ったら楽しいだろうとたびたび思う。」

ぼくも同じ気持ちでいる。本質的な部分は変わらないけれど、時代背景などの変化とともにぼく自身の立ち位置なども変化してきた。

『ぼくは万感の思いを込めシモンさんに15年前のお礼を伝えるとともに、ここ数年のお互いの近況を語り合ったら楽しいだろうとたびたび思う。』

つづく


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