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コンプレックスの正体

ぼくは中学生のころからなんとなく、地方コンプレックスのようなものが漠然とあった。それが大きな都市にある娯楽に対してなのか、地下鉄や電車など充実したインフラに対するものなのか、ずっと判然とせずにいたけれどそれが何なのか、わかった気がする。

ぼくが大都市に対し憧れ、羨んでいたのは、きっと情報だったのだと思う。

都市に暮らす人たちは、物心ついたころから流行や話題のモノはもちろんのこと、いろんなものが当たり前のようにすぐ傍にあった。それは物質的なものだけでなく、音楽やアートといった文化的なものに触れる機会や経験の容易さも含まれる。例えば、立派な美術館や博物館だとか。
また、やりたいことが明確な人にとっては、学校などの選択肢だって多い。

これらは自分が将来なりたいもの、やりたいことへの好奇心を抱かせるきっかけにもなれば、そういった意味で職業選択の多様さにも直結する。
人口の多さはそれだけ多種多様な需要が存在するということだから、地方や田舎では成立しないようなものも大都市では仕事として成立することだってある。
インターネットもない時代、そういった情報をテレビや紙媒体によってある程度は知り得ることはできたけれど、地方で暮らすぼくらにとっては、それを手に入れたり経験をすることは困難だった。

そう考えると周囲の人たちも含め、その人を取り巻く環境というものの重要さを感じる。それが、その人の持つ可能性を見つけたり広げるきっかけになると思うと、やはりそういった環境が日常の中にあるのは素直に羨ましかった。
また、モノやコトなどに対する知識の多さやセンスの良さなども、そういったものに触れる機会に比例していると考えれば、同じ時間を生きてきた人であっても東京をはじめとする都市で暮らす人たちの方が優れていることも必然に思えてくる。

とはいえ、先述したように誰も生まれてくる場所を選ぶことはできないし、それを憂い嘆いたところで何も変わらなければ始まりもしない。
世の中には、本当に仕方のない事情などで地元を離れることのできない人もおられるだろうけれど、大人になれば大半の人は幸い自分の意思で仕事や暮らす場所を自由に選択できる。つまり、その気になれば自分が望む環境へ身を置くことが可能になる。
物心ついたときから、というわけにはいかないけれど、取るに足らないこだわりやしがらみ、固定観念や先入観のない若いうちならきっと何を吸収するのも早いだろうし、何よりもおそらく失うものもない。
もし今、ぼくが若ければやはり東京を目指すだろうな、と思う。

就職であれ事業のためであれ上京する人には、昔から一旗揚げるんだとか成り上がるぞ、と勇んだ気持ちの人が多かった。今だって涼しそうな顔をしている人であっても、いくばくかのそういった思いや大志は胸中に抱いているに違いない。
かくいうぼくも出店のために東京へ行くことが決まったときには、「都を京都に取り返しに行くぞ」くらいの気概があった。

いや、言いすぎた。

てか、これは嘘だな。

でも、同じ土俵に上がれるのなら、現在の自分の位置がどの辺りなのか(業界的に)を明確に知ることはできるだろう、といった思いは本当にあった。

こういった感情は、その環境があって当たり前の東京の人にはわからないだろうし、若干の暑苦しさを感じられたりするかもしれないけれど、それも東京への憧憬を抱いているからこそだと思ってもらえるとありがたい。

最近では、ともすると多すぎる情報を懸念する声もあるけれど、それを渇望するような環境で育った人間としては、やはり多いに越したことはないと思っている。
そしてその多すぎる情報に対する方策は、取捨選択するための基準を自分の中に持つことのような気がしている。


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