レディープレイヤーワン

『レディ・プレイヤー1』スピルバーグの魔法

さて、スピルバーグだ。周知のように、この人はお客さんをワクワク、ドキドキさせる天才なのだが、その仕掛けは驚くほど簡単。シンプルな手品ほど見破られにくいのと同じ。古い話になるが、『激突!』では主人公を執拗に追いかけてくるトラックの運転手の顔を一切映さない、ただそれだけの仕掛けであのなんとも言えない不気味さを描き出してみせる。また、『ジョーズ』では有名な「ダーダン、ダーダン、ダダダダ ダダダダ」というたった2音だけで構成された音楽でサメの襲来を知らせる。見ている我々はパブロフの犬のように飼いならされ、「ダーダン」という音が鳴りだしただけで心拍数が上がるようになってしまう。

私はスピルバーグは本質的に低予算映画向きの作家だと思っている。彼については、製作予算の多寡は映画の面白さとはあまり関係がない。たとえば、ジョージ・ルーカスなんかは、資金はどれだけあってもまだ足りない、というタイプだろう。彼ならば潤沢な資金を余すところなく使って、より迫力ある映像を創り出すだろう。しかし、スピルバーグは、あまりに多額のお金を与えても、その使い途に困ってしまう人だと思うのだ。スピルバーグの『ジュラシック・パーク』(1993)の製作費は約6000万ドル、『プライベート・ライアン』(1998)は約7000万ドル。対して、ルーカスの『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(1999)の製作費は1億ドルをゆうに超える。念のために言っておくと、これはお金の使い方の巧拙ではなく、それぞれの映画監督の個性の話だ。

ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズは、広大な宇宙を股にかける物語だ。いっぽう、スピルバーグの映画は、『ジュラシック・パーク』にしても恐竜の住む小さな島の中での出来事であるし、『未知との遭遇』や『E.T.』なども、宇宙から地球へと、何者かがやって来るお話である。ベクトルが逆なのだ。スピルバーグの創造性は、彼の作る箱庭のなかで発揮される。

新作の『レディ・プレイヤー1』もまた、サイバースペースのなかに作られたVRゲーム「オアシス」という箱庭を舞台とする映画だ。「オアシス」は、単なるゲームという枠を超え、第二の現実と言えるほどの存在となっている。「人々は、食べたり眠ったりトイレに行く以外にはすべてオアシスで過ごす」のだ。その生みの親である天才ゲーム作家、ハリデーは、その興行的な成功とは裏腹に、「オアシスがただのゲームだった頃がいちばん楽しかった」とつぶやく。もしかしたら、ハリデーの言葉は、スピルバーグ自身の思いを代弁しているのではないか。「ただの映画を撮っていた頃がいちばん楽しかった」、彼はそう言いたいのではないか。

私は、スピルバーグが自分の資質と、超大作を手がけるようになった今のポジションとの間に、わずかな違和感を抱いているのではないかと察する。「俺、ただのオタクの映画監督だったのに、なんでこんなに偉くなっちゃったんだろ…」という戸惑い。私はいちど、スピルバーグに超低予算映画を撮らせてあげればいいんじゃないかと思うのだが、どうだろうか。それはさておき、彼は、お金をかけて映画を撮ることができるようになった今でも、若い頃の、低予算映画スピリットを忘れない。シンプルな仕掛けを絶妙のテンポで繰り出して面白い映画を作る。これだ。

『レディ・プレイヤー1』は、映画、アニメ、マンガ等のカルチャーに対するスピルバーグのオタク愛が炸裂した作品だ。まずなんといってもハリウッド版「スーパーロボット大戦」。倉庫に眠るソード・フィッシュⅡ。金田のバイクとデロリアンが並走し、T-REXとキング・コングが暴れまくり、ガンダムとアイアン・ジャイアントがメカゴジラ(3式機龍)と戦う。面白くないわけがない。RX-78がZZのポーズを決めてくれるのも、ガンダムファンとしては「そうきたか!」と心が躍る。

そして数々の映画の引用。『ロード・オブ・ザ・リング』よろしく指輪をゲットして、『インディ・ジョーンズ』ばりの秘宝探し。『シャイニング』の世界に紛れ込み、『スター・ウォーズ』の銀河を旅する。等々。挙げていけばキリがない。面白くないわけがない。スピルバーグが、彼のお気に入りのおもちゃ箱をひっくり返したような映画に、なんの文句もつけようがないのだ。だが、これだけならこの作品は「作家の趣味を散りばめたオマージュ映画の佳作」という評価に留まる。

じつは、上記のような豪華絢爛のシーンの前にすでに、スピルバーグの仕掛けは始まっている。オープニングだ。主人公のオタク少年、ウェイドが暮らす、レゴブロックが積み重なったようなへんてこな家。彼はその3階だか4階だかに住んでいる。ウェイドは外出する際に階段を使わず、垂れ下がったロープや鉄パイプをするすると伝って地上に降りるのだ。そしてガラクタの中をくぐり抜けて、自分だけの秘密の場所へと向かい、そこでゲームをスタートする。自宅でゲームに興じてもいいはずなのに、わざわざ隠れ家へ移動する

一応、ウェイドには迷惑な同居人がいて、家ではゲームに没頭できない、という事情があるのだが、そもそも、なぜこんな設定が必要だったか。なんでわざわざややこしい道のりをたどってから、ゲームが始まるのか。それは、私たちに、子どものころに作った秘密基地や、大人の知らない内緒の隠れ家のこと、その場所で過ごしたワクワクする時間のことを思い出させるため。ウェイドが普通に自宅でゲームをしていたら、こんな気持ちにはならないのだ。スピルバーグは映画開始直後にさりげなく私達の時計を巻き戻し、観客をすべて子どもの姿に変えてしまう。シンプルな仕掛けで、いとも簡単に。

このちょっとした仕掛けが、スピルバーグの真骨頂。スピルバーグのかけた魔法によって、子どもに戻ってしまった私たちの前に、往年のガジェットたちが入れ替わり立ち替わり現れるのだから、そのワクワク感たるや推して知るべし。制作費が増え、どんどん映画の規模が大きくなっても、こういうちょっとしたことをやるから、スピルバーグはいつまでも特別な存在だ。豪華さだけで勝負しない。私たちは、スピルバーグの超大作映画の奥底にある、「ただの映画」によって、いつでも子どものころに戻ることができる。


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