夏目

線でマンガを読む『夏目房之介×手塚治虫』

『線でマンガを読む』について、毎回ご好評を頂いており、読者の皆様に感謝を申し上げたい。ここらで、自分がこのコラムを書くきっかけとなった尊敬する先達を紹介しておこうと思う。マンガ家兼マンガ批評家、夏目房之介だ。

NHK・BS2で1996年から2009年まで放送されていた『BSマンガ夜話』という番組がある。毎回ひとつのマンガ作品を取り上げ、さまざまな角度から語り合うという内容。レギュラーコメンテーターはマンガ家のいしかわじゅんと夏目房之介、評論家・岡田斗司夫の三人。司会進行は交代制だったが、民俗学者の大月隆寛が登板することが多かった。この番組がめちゃめちゃ熱かったのだ。まず、出演者のマンガに対する愛の深さ、そしてその解釈の違いからはじまる壮絶な舌戦

年齢の近い、いしかわと夏目がタッグを組み、若い岡田があえて敵役を担当し、論戦を盛り上げていた(ただし、いしかわと夏目も頻繁に仲間割れする)。ここに本来司会進行である大月が乱入してくることもある。さらに、マンガ評論家の村上知彦、思想家の呉智英、小説家の夢枕獏やミュージシャンの大月ケンヂ、タレントの山田五郎、芸人のよゐこなどがゲストで登場する。皆熱いマンガスピリットを持った人々で、戦いに拍車をかけていた。間違ってアイドルの女の子などがゲストに呼ばれることもあったが、「マンガ愛が不足している」とみなされると、放送終了までほぼ一言もしゃべらせてもらえない、という厳しい番組だった(笑)。

はじめてこの番組を観たとき、まだ中学生だった私は感銘をうけた。残念ながら番組は2009年を最後に事実上終了し、あの熱い戦いの日々は過去のものとなった。『BSマンガ夜話』について書いておくべきことが、もうひとつある。夏目房之介の担当するミニコーナー「夏目の目」の存在である。これは夏目がマンガのコマ割りや描線について、作者や時代の思想、表現技法などを深く分析するというものだった。当時から私はマンガ批評に接していたが、ストーリーを中心に読み解く趣向のものが多く、絵を用いてマンガを語る論者として、夏目はオンリーワンのポジションを占めていた。『マンガ夜話』はもう観られない。ならば自分でやるしかない。こういう思いで、私は拙いながら「夏目の目」を目指して『線でマンガを読む』を書きはじめた、という次第だ。

夏目房之介は「漫画コラムニスト」として、多数の著作がある。それらもまた、マンガについて熱く語りたい、深く知りたいと思っている人に是非おすすめしたい本である。そして、1950年生まれで現代マンガの黎明期を知る夏目にとって、手塚治虫という作家は格別の存在であるようだ。

「一九八九年二月九日、手塚治虫さんが亡くなられた。
この一行を書くだけで、すべて終わったような気がしてしまう。
だけど話しだせば三日でも四日でも喋り続けるだろうし、それでもまだ話し足りないと思うに違いないんだよね。
亡くなったことを知ってから、あちこちの連載にかたっぱしから追悼文を書いた。書いているうちは比較的冷静なのに、書き終えると、みぞおちのあたりから痙攣がのぼせあがってきて、泣く。」(『手塚治虫はどこにいる』夏目 1995)

私もまた、手塚の『火の鳥』は自分の読んだマンガのなかでも5本の指に入る面白さだと思っている。しかし、リアルタイムで手塚に接してきた夏目や、先述のいしかわにとっては、どうやらそうとも言えないようだ。手塚は『火の鳥』をライフワークとしていて、同じ話を何度か描き直している。最初期の『火の鳥』は1954年から「漫画少年」および「少女クラブ」という雑誌に連載されたが、その後、1967年に手塚自身が刊行した「COM」にて絵を大幅に修正したバージョンが発表された。現在『火の鳥』として最も多く目にするのは、このCOM版がベースになっている。そして、夏目によれば、『火の鳥』の絵柄が大幅に変わった60年代後半というのは、白土三平を代表とする劇画の躍進によって、手塚がマンガ界の頂点から陥落し、多くの人気マンガ家の中のひとりとなった「冬の時代」にあたるという。では、50年代の『火の鳥』と60年代後半以降の『火の鳥』の差異とはいかなるものか。夏目は次のようにいう。

『「少女クラブ」版『火の鳥』の復刻版をみると、とても柔らかい'50年代の手塚の描線です。(中略)擬人化された動物と人間が対等な存在として会話してます。(中略)描線も、昔のディズニーアニメ的な、柔らかな生命感をたたえた(僕には、そうみえるんですけどね)線です。』(『手塚治虫の冒険』夏目 1998 ※下記図版も同書からの引用)

いっぽう、COM版の『火の鳥』にかんしては、辛辣だ。

「中途半端にリアルで、中途半端に'50年代的なんです。当時の感じでいうと、なんか恥ずかしいような、ちぐはぐな印象でした。だから古さがかえって浮き立ってくる。(中略)よく、手法の古くなってしまった人が、まったくそのことに無自覚で、まだ自分の手法は通じると信じていて、ものすごいはりきって描いてしまう人の恥ずかしさ、ちぐはぐさの悲しさみたいなのってありますよね。そういう部分を感じたんですね。当時。(『手塚治虫の冒険』夏目 1998 ※下記図版も同書からの引用)

夏目から見れば、COM版の『火の鳥』は、手塚のそれまでの線の特性が古くなり、中途半端に後進マンガ家の新しい手法を取り入れたものなのである。また、50年代と60年代後半の手塚の絵の変容は、『ジャングル大帝』のレオの描写に特に顕著だ。

(『手塚治虫はどこにいる』夏目 1995 ※上が50年代、下が60年代のレオ)

夏目は言う。50年代のレオの「コマごとに微妙な線の差によって出されていた表情」が、60年代以降には失われ、「類型的な<カワイイ子ども>目玉になってしまっているのがわかる」と。手塚はこの時期に、本来の特質である、生命感を湛えた線の魅力が時代遅れとなり、描線を変えた結果、定型化へと向かっている。

ところで、手塚をリアルタイムで読んでいない世代にとって、「ジャングル大帝のレオの顔はどちらか?」と問われれば、ほとんどの人が後の時代に描かれた方のレオを選ぶはずだ。それが手塚の本来の描線の魅力を失っていることになど全く思い至りはしないだろう。手塚は間違いなく日本のマンガにおいて最も重要な役割を果たした唯一無二の存在だ。しかし、それが全てではない。60年代後半以降の手塚は他の人気マンガ家との争いを余儀なくされる作家のひとりとして、一度は自身の武器を失ってから、必死に絵柄を模索し、『ブラックジャック』などのヒット作を生み出すこととなる。現代の私達が見ているのは、本来の資質を失った後の手塚であり、また、過度に神格化された手塚の姿なのかもしれない。手塚の最盛期と凋落を肌で感じ、かつ真摯にマンガの描線の研究に努めてきた夏目は、手塚の実像に最も肉薄した批評家だろう

write by 鰯崎 友

※本コラム中の図版は著作権法第三十二条第一項によって認められた範囲での引用である。

BSマンガ夜話』第1期 DVD-BOX ハピネット・ピクチャーズ 2003

手塚治虫はどこにいる』夏目房之介 ちくま文庫 1995

手塚治虫の冒険—戦後マンガの神々』夏目房之介 小学館文庫 1998

火の鳥 1 黎明編』手塚治虫 角川文庫 1992

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