見出し画像

【シリーズ】「まつりごと」としての政治を考える【其の三】

念願叶って初訪問!!


先日、「太陽の塔」に行って参りました!!(^O^)

最寄駅から遠くで見ても圧倒的な存在感!!


いつも高速道路を走っていたら、

万博公園の森からいつも顔を出して見えてはいましたが、

公園の中まで入って間近で見るのは初めてでした!!


近づいて見る姿も圧巻!!

そういえば学生時代に、

阪大に通っていた友人の下宿を訪れた際に来たことはありました。

ですが、其の時はまだ工事中だったのです。

「太陽の塔」が耐震補強工事を終えて、

地下展示が復活したのが2018年3月17日だったそう。


「太陽の塔」が天照大神の化身だとして、

その「扉が開いた」のは「天岩戸開き」を髣髴させます!(^ ^)

太陽神である天照大神が、

弟である須佐之男命の乱暴狼藉に怒り、

「天岩戸」に閉じこもってしまったことで、

世界中が闇に覆われてしまった。


なんとか天照大神にもう一度外へ出てほしいと考えた神々達は、

話し合いの末に、

天岩戸の前で盛大な「祭り」を行いました。


そこには天皇の資格たる「三種の神器」が飾られ、

中臣氏と忌部氏の祖先神が「祝詞」を奏上し、

天宇受売(アメノウズメ)命が舞い踊り、

神々が「ワハハ」と大笑いしました。

(以下略。『漫画古事記』などで読んでみてください🎶)


前回、「まつりごと」の意義について、

食国の政(をすくにのまつりごと)は天つ神の命令を受けて田を作り、秋になると「まつり」をして田の成り物を天つ神に献上することである。これが天皇の最も大切な仕事であった。

『折口信夫事典』p.125「まつり」より

という部分を引用して強調しました。


「祭祀王」たる天皇の本来の役割
についても考えてみたところでしたが、

今回は「天つ神」たちが行った「天岩戸開き」という、

いわば「天上界の祭り」に関わる壮大なお話になるかと思います!!!

「まつり」の言霊学(げんれいがく)的解釈


「政治」を考えるにあたっては「まつりごと」という語源と切り離せず、

「まつり」の本来の意味は何なのかについての答えを探してきましたが、


ここで、一応のというか、究極の答えを言ってしまおうかと。笑


と言いますのも、

「言霊学」(げんれいがく)

と言いまして、

「言の葉」(ことのは)つまり「事の端」としての「言葉」

さらに「言霊」(ことだま)として知られる一種の「魂」的なもの、


そこからさらに一段上がって、

「言霊」(げんれい)として捉えた内容を纏めたものこそが、

「言霊学」(げんれいがく)

と呼ばれているものなのですが、

その学問の中で「まつり」の語源について述べられているのです。

次に連気または釣義であって、ばらばらになっている首と尾とを連らね合せて、元の、若しくは新しい第二次的な完全な形を得ること真釣り(祭り、政り)と云う。

『言霊百神』新装版 小笠原孝次著 「天沼矛」より

むむ、……むずかしい。(^^;;

一読して、ご理解できたでしょうか?

僕は何度も何度も読んでみて、少しずつ意味を噛み砕いています。

(「読書百遍、意自ずから通ず」という言葉がある通り。)


要するに「まつり」の三文字「ま」「つり」に分けられ、

「真」と「釣り」と漢字に変換すれば正確な意味が浮かび上がります。


「真」(まこと、真実、真理)

「釣る」(引き上げる、浮かび上がらせる)

というところでしょうか。


「真偽」という言葉からは、

「偽り」でない「本当の自分」を「甦らせる」ことにも繋がる。


「元の、若しくは新しい第二次的な完全な形」

というのも、味わうべき表現ではなかろうかと思います。

「元の」と「新しい」とは、一見して相矛盾する言葉だからです。

(古神道において「常若(とこわか)」という概念がある通り。)

「『本当の自分』を見つけたいっていうけど…」


前回の記事の「いきものがかり」の雰囲気を引きずってしまっていて、笑

また高校時代のヒット曲から歌詞が浮かんできてしまいました。

「本当の自分を見つけたい」って言うけど
「生まれた意味を知りたい」って言うけど
僕の両手が それを渡すとき ふと
謎が解けるといいな 受け取ってくれるかな?

Mr.Chidren『GIFT』より


誰もが奥底に秘めた「願い」や「祈り」とも呼ぶべきものが、

本当の自分に出会う」こと、

生まれた意味を知る」こととも言えるのではないかと。


とはいえ、過ぎゆく時の中で、忙しい日常の中では、

「そんなこと考えている暇はない」として片付けられてしまいます。

しかしながら、この根本的な「願い」を置き去りにしてしまうと、

「俺って何のために生きてるんだろう?」

と言う問いが頭を過らないわけにはいかず、

その答えを探すことを諦めては、

他の何か(地位や名誉やお金や権力)で埋め合わせようともするわけですね。


岡本太郎が次世代に託したこと


さて、冒頭の「太陽の塔」の話に戻りましょう。

芸術家・岡本太郎といえば、

『自分の中に毒を持て』と言う本が有名で、

これは自分も学生時代に出会って鮮烈な印象を覚えたのを記憶しています。


学生時代の読書時代はそこからさらに進んで、

岡本太郎の本をいろいろと粗方読み漁ったのを覚えています。

(過去の記事でも長文で取り上げていました。m(_ _)m)


そんな岡本太郎が、54年前の大阪万博で何を企んでいたのか?

その答えの一つは、現在の「太陽の塔」の階段を登った最上部に、

短い言葉で纏められた文章から読み取ることができます。

(※以下、太陽の塔の最上部のネタバレを含みます。)


(※「太陽の塔」を「地底の太陽」から堪能し体験した後で目にしたいというこだわりまでは持たない方のみご覧ください。m(_ _)m)

(本当にいいですか?書いちゃいますよ?)


(ともあれ「太陽の塔」は実際に予約して見学してみてくださいね!笑)


太陽は人間生命の根元だ
惜しみなく光と熱をふりそそぐ
この神聖な核
われわれは猛烈な祭によって
太陽と交歓し
その燃えるエネルギーにこたえる

岡本太郎

先ほど、「祭り」とは「真釣り」であり、

「本当の自分を見つける」ことに通ずると考察しました。


岡本太郎は「太陽」を「人間生命の根元」と表現しました。


つまり、我々の「生命」は太陽につながっている。

「本当の自分」を考えるときに、太陽の存在を無視できない。

「いのち」の元を辿れば、

現代の自然科学や宇宙論的に言っても、

「太陽」や「ブラックホール」の存在に行き当たります。


これはオカルトでもなんでもありません。笑

(宇宙論は宇宙論で、いつか改めて纏めることにいたしましょう!)


「いのち」とは本来、「太陽」のようにメラメラと「燃える」ものである。

太陽とエネルギーを「交換」するのではなく「交歓」する


「いのち」の「歓びを交わす」のが「祭り」である。


ここまできて、古代の「祭り」のイメージも浮かび上がるでしょう。

(空島でのキャンプファイアーのシーンとか、まさにそれですね!!)

(無論、古代は「太陽」のみならず「月」も「星」も「祀り」ましたが)


加えて、岡本太郎が強調したのは、

「祭り」はいわゆる「お祭り騒ぎ」とは違う

という点です。


「お祭り」における「どんちゃん騒ぎ」が単なる「憂さ晴らし」、

つまりは「ストレス解消」の道具に成り下がってしまうのでは違う。


「生命の根元」に繋がるというのは、厳粛なものです。

(これは前回取り上げた天皇による祭祀のイメージに近いですね。)

その上で、「歓び」の表現として「遊ぶ」ことを否定はしません。

ただ「本末転倒」になってはいけない、ということなのでしょう。

「太陽の塔」を超えるのは「銀河の塔」?


「太陽」が僕らの「生命の根元」であるとして、

岡本太郎が「太陽の塔」を作ってから55年の月日が流れようとしており、


次の大阪万博でその意図(祈り)を受け継ぐとしたら、

「太陽の塔」の次は何になるのか?


ここでも冷静に、宇宙論的に考えた場合に、

「太陽系」を生み出したさらに親にあたる存在が「銀河系」だといえます。

さらには、その中心に位置する「ブラックホール」の存在があり、

「原始の太陽」と言える「ファーストサン」と合わさって、

元素が混ざり合って生命の誕生につながったのだと言います。


この映像でブラックホールから立ち上がる「ジェット」こそ、

「銀河の塔」と呼ぶべきものである。


そう確信して既に立ち上がっておられるのが、

「七夕アーティスト 大志さん」です。


「政治」の次元のみで考えてしまうと、

選挙制度や議会制民主主義やマスコミの存在など、

すぐに「限界」の方に目がいってしまうのではないでしょうか。


ですが、

政(まつりごと)」即ち「祭り」の視点を取り入れた場合には、

「まだまだやれることがある」という希望が立ち上がってきませんか?


生半可なことでは進まない、「いのち」を燃やす「祭り」が必要。


遠い先祖である原始太陽やブラックホールとの繋がりを思い出し、

「いのち」の「歓び」を表現できたときに、

新たな「まつりごと」の息吹が甦るのかもしれない。


そんな熱い思いで書き進めてきました。

このシリーズの行き先は、神のみぞ知る。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?