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【唱歌シリーズ】『花』武島羽衣

『花』

春のうららの隅田川、
のぼりくだりの船人が、
櫂のしづくも花と散る、
ながめを何にたとふべき。

見ずやあけぼの露あびて、
われにもの言ふ桜木を、
見ずや夕ぐれ手をのべて、
われさしまねく青柳を。

錦おりなす長堤に、
くるればのぼるおぼろ月。
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき。

岩波文庫『日本唱歌集』p.74



「隅田川」と『花』をめぐるドラマ


私は田舎育ちなので、東京はとにかく都会のイメージとして映じてしまい、

静かさを好む性格からは「決して住めたものじゃない」と思っていました。


ですが、この隅田川を中心に描かれた歌詞のイメージは、

春爛漫の美しい情景として目に浮かびます。


『花』という唱歌にまつわるエピソードを書籍より引用します。m(__)m

東京・墨田区、向島百花園の近くに住む石井貞光(60)は、「ミスター隅田川」と呼ばれる名物男だ。隅田川に魅せられて四十年、浄化運動、郷土史研究、文化イベントなど、隅田川をめぐるあらゆる動きにかかわり続けてきたその原動力は、中学校の音楽の時間に教わって以来、数えきれないほど歌ってきた『花』だという。
「僕の故郷は佐賀県の片田舎でね、『花』を歌うと、東京へのあこがれがかきたてられて、たまらなくなるんですよ。家のわきにも小川が流れているけれど、東京の隅田川は、もっと素晴らしいものに違いない。東京に行きたい、春のうららの隅田川を見たいと毎日思っていました」

『唱歌・童謡ものがたり』(読売新聞文化部)より


「唱歌」の持つ力
「詩歌」の表現が与える影響の大きさを思わされます。

(「ミスター◯◯」と呼ばれるのは何でも気分が良さそうですね!^ ^)


しかし、実際に見た隅田川はイメージとは異なるものだったといいます。

生活雑排水や工業用水の垂れ流しによる汚染は、この数年後、五〇年代末にピークを迎える。石井の見た隅田川は、年表の上では、まだきれいな方といってよいものだった。
しかし、「川といったら、澄んで底が見えるもの」と思っている田舎育ちの石井には、耐えられないものであった。流れは暗く淀み、廃油の筋が何本も浮いている。気がつくと、どぶのにおいがしてきた。
これが夢に見た隅田川かと、やりきれない気持ちになりました。同時に、自分たちの川をこんなに汚くして平気でいる東京人に、ものすごく腹が立ちましたね
やむにやまれぬ思いで、石井は浄化運動の中に飛び込んだ。データ作りのために両岸を歩き回り、住民の話を聞くうち、浄化運動だけでは解決しないのではという思いが強くなってきた。
隅田川は、いわば東京の顔。なのに、今の我々は、パリ市民がセーヌ河を思うように、隅田川を愛してはいない。『花』に歌われた隅田川を取り戻すためにはどうすればいいのかと、悩みました

同上 続き

中学で必ず習って歌う「唱歌」なのに加えて、

隅田川が有名だからこそ、こうして立ち上がった人がいたわけですが、

このような事情は何も東京や隅田川に限ったことではないでしょう。


「土地を愛する」という心を喪失して久しい、

現代の日本人の悲しい現実があります。。。(>_<)

七九年、石井は仲間を募って隅田川文庫をおこした本業であるフリーのPRプランナーで稼いだ金をつぎ込みミニコミ誌「季刊すみだがわ」や「隅田川絵図」、「隅田川の橋」などを次々と出版、「隅田川を東京の象徴に」と訴えた。
また八五年には、両国国技館の開館を機に、「国技館すみだ第九を歌う会」を発足させ、自ら事務局長となった。一月場所の後に行われた第一回のコンサートでは、作曲家の石丸寛が『花』のメロディーをアレンジした新しいファンファーレを披露、満場の喝采を浴びた

同上 続き


やむにやまれぬ大和魂」という、吉田松陰先生の句がございます。


至誠にして動かざるものは未だ之れあらざるなり」とは、

松陰先生が特に好んだ『孟子』の中にある言葉です。


やむにやまれぬ思い」がここまで人を突き動かすのかと、

石井さんの行動からは隅田川への大きな愛を感じるばかりです。m(_ _)m


「国土」と「日本語」が「日本人」をつくる


隅田川をめぐるエピソードからつくづく思い知らされるのは、

「愛国心」「郷土愛」と言われるものの大切さです。


とりわけ「国土」に対しては、

自然環境と切り離された都会生活を営む今は、感謝の念を忘れがちです。


先日はご縁あって、ある農地で農作業を体験させていただきました。(^人^)

稲の一粒が食卓のご飯になる

「大地の恵み」によって「生かされて」ある我々。

と同時に、「大地を生かす」存在でもある我々。

それを忘れて怠ると、

大地は容易に痩せ細ったり汚れたりしてしまいますよね。

滋賀県彦根市にある千代神社にて


古来「八百万の神」として天地万物を尊んできた日本人

さらには、イザナギとイザナミによる「国生み」の神話からも、

神はまず国土をつくり、そこから人民を生んだという伝承が伺えます。

(「身土不二」という言葉もございます。m(_ _)m)

それぞれの都道府県(旧国名)も、

いわば「神」としての「名」が付いていますよね。

それぞれが生まれ落ちた故郷を大切にすることで、

この国の安全と平和が保たれて、永遠に栄えゆくのだと考えます。


作詞・武島羽衣と作曲・滝廉太郎のエピソード


続けて、作詞者と作曲者にまつわるエピソードをご紹介します。

『花』は、東京音楽学校に赴任直後の羽衣が書いた詩に、同校助教授の滝廉太郎が曲をつけたもので、一九〇〇年に組歌「四季」として出版され、日本初の芸術歌曲と呼ばれた。羽衣二十八歳、廉太郎二十一歳の時のことだった。
同校在学中からピアニスト、作曲家として評判だった廉太郎が、「四季」の出版にかなりの自信を持っていたのは、序文を見れば明らかだ。既存の唱歌集を「程度の高きものは極めて少なし」と批判、自ら日本の詩に合わせた曲を発表し「以て此道に資する所あらんとす」と述べた。この言葉を裏づけるように、『荒城の月』、『箱根八里』などの傑作を次々発表している。

同上 続き

滝廉太郎といえば、学校の教科書で習って知らない人はいないほどの人物。

唱歌の制作に対する並々ならぬ自信と使命感を持っていたことが窺えます。

一方の羽衣はあっさりしたものだ。古典派、美文の詩人として、廉太郎に劣らず、活発に創作を続けていたにもかかわらず、自作についてはほとんど発言していない。
「父は、日本橋の木綿問屋の息子。腹に何もなくて、金や名誉がきらいで、終わった仕事にはあれこれ言わない。だから、『花』のことも我関せずでした」と達夫が言う。
羽衣の関心をよそに、『花』は世代をこえて歌いつがれてきた。廉太郎が二十三歳の若さでこの世を去ったために、「花」の話題になると、羽衣が引き合いに出されるのだが、いつも「あれは音楽学校時代に春夏秋冬の四つの歌を作った、その一つです」と淡々と答えていたという。

同上 続き

作品にまつわる経緯や関わる人の思いは、人それぞれなのだなぁと。^^;


ですが、話にはまだ続きがございます。m(_ _)m

だが、羽衣の『花』への思いは、実は、その言動ほどそっけないものではなかった。五五年の暮れ、実践女子大の同窓会に出席した八十三歳の羽衣が、思い出話の合間に「『花』の歌碑を建てたいなあ」ともらした。日ごろの恩師を知る教え子たちは、さりげない言葉の中に、秘めた思いを感じ取ったこの日から教え子たちの資金集めが始まった。実践、日本、聖心と、羽衣が教鞭をとった三女子大からたちまち三百五十人が集まった。「父は、本当にうれしそうでした。自筆の歌詞を書くため、畳の上に大きな紙を広げるのですが、緊張してなかなか書けなかったようです」

同上 続き

どれも心温まる話ばかりなので、

省略せずに最後まで引用させてください。m(_ _)m

翌年十一月三日。
除幕式での羽衣は、いつも通り淡々としたものだった。だが、神田の料亭での記念会では、あふれる思いをこられきれなかったのか、さかんに目頭をおさえ、泣き顔など見たことがないという達夫を驚かせた
「あの父にも、自分の歌が何十年も親しまれているという、うれしさがあったのかもしれませんね。それを顔に出さなかったのは、江戸っ子の照れのようなものだったのでしょう」
羽衣は歌碑完成の十一年後、九十五歳で天寿を全うした。『花』の歌碑は、今も隅田川西岸の言問橋近くで、大川の四季を見守っている

同上 続き


歌碑」といえば、

万葉集に関するものから、全国のあちこちにございます。

滋賀県高島市にある万葉歌碑


歴史とポーネグリフのお話もつい最近させていただいたところですが、


「石」として残す
ことに「意志」が宿るということは言えそうです。


日本語は、縄文から殆ど変わらない言語であるとも言われます。

今話題の大河ドラマの舞台である平安時代も、

その当時の言葉を今も殆どそのまま読んで分かるのは、

世界の歴史に比べてもほとんど奇跡的だと言えそうです。


いろいろな形で残されている歴史と国語とを後世に繋いで参ります。

国語、国文学は歴史とともに国民の情緒の背骨を作るものである
これを軽んじては、国民はみな海月のように骨抜きになってしまうだろう。

岡潔『春宵十話』より

きれいな水というのは、たとえば先人たちの残してくれた文化の水である。これも子供を対象にしていうなら、先人の残した学問、芸術、身を以て行なった善行、人の世の美しい物語、こうしたいろいろの良いものを知らせるのが大切であろう。ものの良さがわかるということは明治以来だんだんむずかしくなってきている。現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない、そんな風潮が支配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。しかし、そこを骨を折ってやってもらわねば、心の芽のいきいきとした子は決して育たない。教育というのは、ものの良さが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか

岡潔『春風夏雨』より

春は物事の始まりの季節。

勇猛果敢に何事にもチャレンジして参ります!!^o^

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