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『生命式(村田沙耶香)』を読んで

「人間をどう繁殖させるかを考えた」
インタビューでテレビ番組でそんなことを言っていた村田沙耶香氏
そんな作家さんの短編集があると分かって読んでみた。
その中から気になった いくつかと感想を少々。


「生命式」

人間の生命の営み
人が死んだのだから次の命を生成するのだ、という文化的・儀式的慣習。
現在この世の中で浸透しているであろう、『愛する人を見つけて結婚して、家庭を築き子供を授かり育んで、次の世代に繋げましょう』。そんな価値観とは異なった、『ヒトとして種族を継続すること』 をシンプルに、かつ効率的に考えたら、こんな慣習が生み出されるのかもしれないと考えてしまった。
この行事『生命式』がよくある「盆踊り」や「初詣」みたいなものであれば。私も、子孫の残すこの「結婚」というシステムに、せかされるような日々をモヤモヤと送ることは少なくなるんだろう。
作品中に登場する、『センター』から子供を受けたり、預けたり、たまに可愛がりに来たり、そんな人間になりそうである。子を人類の子として、システマチックに育み、運営していくのだろう。

「ポチ」

小学生の女の子がポチを飼っている
『サラリーマン』のポチを。

この章を読んでふと思ったこと。
エロチックな感じがしないのが、素晴らしい。

日々、バリバリ働いていると腹が立つこともある。
心の中で罵倒し、たまには掌で転がしながら、飼い慣らしてやりたいと思うことも多々ある。が、女性が人間を飼うことを想像すると、どうしても情事が想像されてしまうくらいには、大人である。


小学生の女の子は、ただただ単純に、ポチの行く末を案じている
ただただ、この『ポチ』という生命体を守り生かさねばならない。


純粋そうな女の子が飼い主で良かった。


悪意に満ちた掌の上で転がっているポチ
純粋に掌で転がるのを楽しんでいるポチ
私だったら、そんな風に憎悪の気持ちで『ポチ』を眺めるかもしれない。

『ポチ』と呼ばれる『     』

常軌を逸していると分かっても、ここにしか居場所がない。
行き先が分からないから、ここに戻ってきてしまう。
私には『   』しかいない。

私も『ポチ』になってしまう時が来るかもしれない。
ポチは「2時までに仕上げてくれ」と啼く。
きっと私は、「すみません」と啼くだろう。



「孵化」

大抵、相手の言ってほしい言葉がわかる
まさに『呼応』する

大人になると大体分かるようになる。
『あー、誉めてほしいんだ、自慢したいんだ』
『あー、この人怒っているアピールしたいんだ』
そうしたら、今私の言うべき言葉は、『  』だ。
取り合えず、こんな風に言っておけば良いだろう。

何人もの人格と共にある主人公の『機械的性格』をある意味清々しく思う。『呼応』し続けていれば“性格が合わない”と嘆き悲しむこともない。


そして主人公の『複数の人格』の共生(主人公に複数の人格があるわけではない、彼女は一つで『呼応』しているだけなのだが。)に理解を示し、
あまつ解決策まで示す 主人公の友人 の頭の良さが、心理分析に達観しているアドバイスが、恐ろしい。
主人公の友人もまた、人の抱える心理を具現化できる人物像を作り出せる。
人は人の不幸が大好物
そしてその秘密を知った自分の優位性と特別感
選ばれたものだと思い込む。


自分の性格なんてもはや分からない。
思ったことを素直に言っていい社会なんて、幼稚園の時に終わってしまった。

『机の上の折り紙を選んでください~』
『はい、先生の言う通りに折って~』
『出来たら、マジックで点々を書いて~』
『はい、イチゴの出来上がり~』

“こんなのイチゴに見えない”

『どうして、そんなこと言うの!先生に謝りなさい。
せっかく教えてあげたのに!!』

こだわりと先入観がある。
手元には、“まっしろなイチゴ”があった。
私は、“あー、『イチゴ出来た~ すご~い』と言わなければならなかった”
最初からイチゴを作ると言われれば、赤色か桃色の折り紙を選んだものを。

今ならば、高級品と分かった “まっしろなイチゴ” も認めることができるかもしれない。


先入観を取り払って

思考トリップをさせてくれる面白い短編集だった。

何が常識で、何が非常識なのか。

2050年、地球の水不足。
私たちの生活は、水使用制限が日常化。そのうち、雨が降ったら薄着で外に出て、頭や体を洗い始める そんな風習が。オフィスで会議をしていようが。
あー、その頃私まだ全然生きてるかも。


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